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【岩田温大學】人権問題からは見えてこない本当のチベット問題

ノンポリが人権派となった?

 中国、四川省における大地震の発生以来、忘れ去られてしまった観のあるチベット問題だが、改めてこの問題を考えてみたい。

 「チベット暴動」などと呼ばれた今回のチベット人の一連の蜂起は、単なる「暴動」などではありえない。それは、長年にわたる中共の過酷な支配、文化破壊、民族浄化に対するチベット人の抵抗として捉えるべきだろう。チベットの問題を世界各国が取り上げ、「人権」問題として中共の弾圧に対して世界各国、多数の人々が批判した。それに対して日頃は「人権」、「人権」と馬鹿の一つ覚えのように騒ぎ立てる朝日新聞をはじめとする日本のマスコミが、チベットにおける人権弾圧に対して冷淡であったのは、彼らの本性である親中、親共産主義の表れ以外の何ものでもなかった。日本における自称「人権派」が、いかにいかがわしい存在であることが明らかとなったといってよい。彼らは「人権」そのものに興味なり関心があるのではなく、単に自らの政治的勢力を拡大するために、あるいは反対勢力を批判するために「人権」の旗印を掲げているに過ぎない。彼らはまさしく「道具的人権派」であり、さらに正確に言えば「御都合主義的人権派」に他ならない。

 これに比べれば、欧米の「人権派」は、一本筋が通っている。相手が米国であれ、中共であれ、「人権弾圧」があると見たら、抗議の声を上げる彼らの姿勢は、日本の自称「人権派」 の人々が倣うべき姿勢だろう。朝日新聞をはじめとする左翼がチベットの人権弾圧に対して冷淡であったのに対し、日常はノンポリとされる人々が国内で抗議の声を上げた。それが長野や東京でこだました「フリーチベット」の意味であろう。人権弾圧を非難すべく立ち上がった彼らこそが真の「人権派」というべきだろう。

チベット人が立ち上がった理由

 もちろん、チベットの人権弾圧は正さなければならない喫緊の問題である。だが、本当に問題とされるべきは、中共によるチベット人に対する人権弾圧なのだろうか。彼らチベット人が立ち上がったのは、人権の観点から説明すべきなのだろうか。

 チベット人が立ち上がったのは、中共の不当な支配そのものに抗議の声を上げるためであった。チベットは明らかな独立国であったが、「解放」の名目で人民解放軍が侵略して以来、その主権は完全に奪われたままである。主権なきチベットでは、大虐殺・文化破壊とともに、義務教育によって中共のプロパガンダが行われている。すなわち、チベットでは人民解放軍の解放以前は、人民は奴隷状態に置かれて、ダライ・ラマをはじめとする邪な宗教者が莫大な富を独占し、人民を搾取していた。人民解放軍の「解放」によって、チベット人民の生活は飛躍的に向上したというプロパガンダである。宗教や自然を大切にしながら、ささやかに暮らしてきたチベット人の歴史を全面否定し、自らの行った大虐殺、文化破壊を肯定するという、凄まじいプロパガンダである。

 現在進行形で文化は破壊され、人々は殺戮されている。そして、意図的な移住政策によって漢民族が続々と入植し、人口における漢民族の割合が年々高まっている。チベット民族の滅亡が近づいているのだ。

 この現状を何とか改善しようと、悲壮な決意のもと敢然と立ち上がったのが、今回の蜂起である。それは、「人権」云々の話ではないのだ。「民族の独立」をかけた闘争である。圧倒的な武力を持つ中共に対しての蜂起は、確かに愚かな行為かもしれない。だが、時として人は愚かと知りながら、結果の明白な失敗を情熱的に選び取っていく。

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