第6話 夷講(えびすこう)での口喧嘩

 その年の十月に入り、月の半ばも過ぎれば、全国に散っていたののう巫女たちは順に故郷の祢津に帰り来て、出先でさきかせいだ大層なお金を、領主や神社や寺院などへ献金けんきんとして配り歩くのが通例だった。その稼ぐ金額というのも半端でなく、土地の名士や豪商の家で口寄くちよせなどすれば、その土地の情報を得るばかりでなく、一度に何百両といった報酬ほうしゅうもらえることもあるのだ。だから彼女たちが身に付ける物も自ずと豪華で、普段は田舎じみた祢津の町でも、彼女たちが戻れば何やら町全体がはなやいで、美しい女性というのはたった一人そこにいるだけでも周囲を明るくするものなのに、それが十人、五十人、百人ともなればにぎやかになるのも当然である。
 ところがそれが過ぎると逆にねたまれ、
 「巫女たちは旅先でいかがわしい事をしているに違いない」
 といったあらぬうわさや風評を流され、彼女たちをよく思わない者も多くいた。
 旅先ではがたがられ、帰ればけむたがられ────ある意味それが巫女歩きの宿命かも知れない。
 とはいえ明日はいよいよ夷講えびすこう祭事さいじである。
 町全体を巻き込んで行なわれるその行事をひかえては、巫女たちも修行に全く身が入らない。と言うのも、その日は福をもたらすとされるえびす様をまつるお祭り騒ぎ────農家は秋の収穫を終えて一段落しており、冬の準備を始めてはいるが比較的手がいて、夷講えびすこうに合わせて寺の坊主や、大工だいく鍛冶屋かじや杣人そまびとも、あるいは馬飼いも宿屋や料理屋の女たちも、雪が降る直前の季節というのに、夏で言ったらお盆を迎えるような気持ちになって、何か楽しい事が起こる予感で心をワクワクさせていた。
 とは言っても神事なので、する事といったらさかき紙垂しでを付けた大麻おおぬきを祭壇に祀って明かりをともし、しゅんの食材でこしらえた御膳ごぜんを供え、御神酒おみきを捧げて神職しんしょく祝詞のりとをのたまえば、あとはえびす様を祀った場所に集まった人々は、各々おのおのに商売繁盛や五穀豊穣ごこくほうじょう、健康や家内安全などを願って夷様と一緒に供えた御神酒おみきを飲み合うというごく素朴そぼくなものだったはずが、時代とともに華やかさを増し盛大になり、宮中行事のように音楽や舞踊を取り入れてみたり、やがてはその場を借りてひともうけしようとする者も現れて、戦国時代にはすでに現代のような花火を上げたり露店ろてんが出るような所謂いわゆる夷祭えびすまつり〟の原型が出来上がっていた事だろう。
 どこぞで「祢津で夷講えびすこうがある」と聞きつけて、獅子舞ししまいを踊りに来たり、豆蔵まめぞう(大道芸人)が芸を披露ひろうしに来たり、祭場へ行けば何かと目を楽しませてくれるので、それは一年の中でも大きな地域行事となって、特に夷神社と関わりの深い巫女たちは、修練道場も含めて稽古けいこも修行も公暇こうかになるので、何かを求めて町へ出歩き、お祭り気分を堪能たんのうするのである。
 遠くの方から祭囃子まつりばやしが聞こえて来ると、智月ちげつの巫女屋敷もにわかにソワソワし出し、はななどは早くも庭に飛び出して、
 「ねえや! 早く行こうよ!」
 とき立てる。智月は屋敷の中から、
 「お花や、そんなに慌てなさんな。夷様は逃げていきゃぁせん」
 そう言うそばからおぼろもお雪と清音きよねを連れて飛び出し、
 「智月さん、はやくぅ~!」
 と呼ぶ。あやは朝から祭事のおどり要員にり出されていないが、まんざらでない智月もようやく出て来ると、同じ屋敷に住まう同僚どうりょう梅園うめぞのに向かって、
 「梅園さん、行きましょう」
 と誘った。
 「私たちは後から行くわ。先に行ってて」
 と答えるもう一人の組頭くみがしら梅園は、智月組より少し年齢の高い自分の組の巫女たちの顔を見回し、「ついていけないわよねぇ?」と苦笑いを作った。

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学術的には完全否定されている”女忍者(くノ一)”の存在を肯定したく、筆者の地元長野に残る様々な歴史的事実を重ねながら小説にしています。 無論小説ですので事実と食い違う点も出てくるとは思いますが、できる限り史実に忠実になりながら、当時の息遣いが感じられるようなものにできればと思っています。 伝えたいのは歴史に埋もれたロマンです。

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