第7話 沼田城

 上野国こうずけのくに沼田ぬまたの西に位置する吾妻あがつまの、岩櫃城いわびつじょう海野うんの幸光ゆきみつとその弟輝幸てるゆきが守護して郡代ぐんだいを務めているが、もとよりこの兄弟は吾妻郡羽根尾はねおを領する羽尾はねお氏の血を引く国人衆こくにんしゅうで、信玄の勢力拡大によって昌幸の兄信綱のぶつな調略ちょうりゃくで武田氏にくだってより、
 「もとをただせば我ら、滋野しげの一族の海野氏の子孫だ」
 と自称して海野を名乗るようになっていた。
 岩櫃いわびつ城は一応信綱支配の城という事にはなっていたが、長篠の敗戦もあって、武田に領地を押領おうりょうされた者との間で小競こぜり合いも多く、一刻も早く手を打つ必要があった昌幸は、ようやく武藤家から真田家にふくすと、ただちに小県ちいさがたの真田屋敷から吾妻の岩櫃城へ移って、
 「沼田城を奪う。今は城主不在で在しているのは城代じょうだいだ。お前たちも沼田を攻め取るつもりで真田に忠信ちゅうしんを示して見せよ」
 と、海野兄弟の士気しきをあおった。
 ねらう沼田はいま上杉謙信の支配であり、当地を預かるのは上野うえの中務なかつかさ少輔しょうゆうという男である。彼はもともと将軍足利あしかが義輝よしみつ執事しつじをしていたが、義輝の死後、謙信けんしんを頼って春日山かすがやまに移り、沼田城主が不在になったことにより守護代しゅごだいとして沼田に来ていた。
 沼田城ぬまたじょう────それは四面を山に囲まれた利根郡とねぐんは、ばち状の地形の高地の南端、河岸段丘かがんだんきゅうにあり、北は三峯山みつみねやまふもと薄根川うすねがわ、南は赤城山あかぎやまのぞんで片品川かたしながわ、西は利根川が流れるその向こうはすぐ昌幸のいる吾妻で、そこは名のごとく沼地も多い天然の要害ようがいであり、倉内城くらうちじょうとも呼ばれていた。
 この城の本丸に上野中務なかつかさは住んでおり、三之丸には藤田能登守のとのかみという男がいて、領内郡郷ぐんごうの政務は全て金子かねこ美濃守みののかみと上杉老臣小中こなか彦兵衛ひこべえに加え、松本三太夫さんだゆうの三人が奉行ぶぎょうとなってり行なっている。
 これに従う沼田在来ざいらいの国人衆は、岡野屋おかのや下野しもつけ恩田おんだ越前守えちぜんのかみ中山なかやま駿河するが下沼田しもぬまた豊前ふぜん発地ほっち宮内抔くないはいといった顔ぶれで、戦国期突入以来、越後と関東を結ぶ要衝地ようしょうちであったことから、上杉・武田・北条三者による激しい領土争いの中で、半分あきれ、半分あきらめ、時の支配者の言い付けに唯々諾々いいだくだくと従う無気力な日々を送っていた。
 年が明け、雪解けを待たずに祢津ねつを立った丸山まるやま伊織いおり巫女みこたちは、そんな事など何も知らずにこの沼田の地にやって来る────書きそびれてしまったが、当時から江戸時代を通して、山伏やまぶしのような修験者しゅげんじゃ僧侶そうりょなど神仏に仕える者たちは、全国どこの関所せきしょにおいても全てフリーパスなのだ。それは巫女も同じである。

ここから先は

7,072字
学術的には完全否定されている”女忍者(くノ一)”の存在を肯定したく、筆者の地元長野に残る様々な歴史的事実を重ねながら小説にしています。 無論小説ですので事実と食い違う点も出てくるとは思いますが、できる限り史実に忠実になりながら、当時の息遣いが感じられるようなものにできればと思っています。 伝えたいのは歴史に埋もれたロマンです。

ののうの野

1,000円

【初回のみ有料】磐城まんぢう書き下ろし小説『ののうの野』を不定期掲載しています。 時は戦国、かつて信州祢津地域に実在した”ののう巫女”集団…

よろしければ応援お願いします! いただいたチップはクリエイターとしての活動費に使わせていただきます!