自意識過剰とリトルわたし
こんにちは、イワシです。
今日は、自意識についてのお話です。
わたしのnoteを読んでくださった方はお気づきの方もいるかもしれませんが、
わたしは”恥”という感情が大きく、それによって「本当はこうしたい」にストップをかけて踏みとどまってしまうことが度々ありました。
(これら3つの記事には、すべてわたしの”恥ずかしさ”が描かれています。お時間ある方はぜひ、読んでみていただけると嬉しいです。)
なぜ、こんなに恥ずかしいという感情が生まれてしまうんだろう。
たまたま読んだオードリーの若林さんのエッセイにこんなことが書いてありました。
前回のエッセイで、スターバックスで注文の時に、「グランデ」と言えないと書いた。何か自分が気取っているような気がして、恥ずかしかったのである。
「L」は言えるのだが「グランデ」は言えない。
自意識過剰である。
『ナナメの夕暮れ』/若林正恭
自意識過剰。
これだ。
恥ずかしくて、「グランデ」と言えない若林と、
恥ずかしくて、可愛いお洋服を身に付けられないわたし。
たぶん、根本は同じです。
自意識過剰なんです。
自分で勝手に自分を客観視して、勝手に「らしくない」なんて決めつけて、勝手に恥ずかしくなってしまう。
だれも気にしていないとか、そんなことはよくよくわかっているつもりなのですが、自分が気にしてしまうんですよね。
自己肯定感が無駄に高い能天気ニンゲンのくせに、心の奥の奥に自信のなさの塊みたいな「リトルわたし」を抱えていて、それがちょこちょこ現れてわたし自身をナナメに見てくるんです。
そのことに気づいてからは、
現れたリトルわたしをリアルわたしがさらに客観的に見る(書いていて意味が分からなくなってきました)ことができるようになり、
リトルわたしをどうにか押し込めて一歩踏み出してみるということができるようになってきました。
もちろん、リトルの方を押し込められないときもありますが。
恥ずかしいという感情の原因に気づけたこと、自分が自意識過剰だと自覚できたことは、わたしにとって目から鱗がぽろっと落ちたような、大きな発見でした。
リトルわたしは、きっと当分(もしかすると一生)わたしの中に住み続けるんだろうと思います。
仕方ないなあ、彼女と上手に付き合っていきましょうか。
読んでくださったあなた、ありがとうございます。
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