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「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 13

第2章-6.パリ、1831年~1832年:オーレ・ブル、ケルビーニ


 メンデルスゾーンが当時どれだけイカれていたのか、回想録の名に相応しくあるため、ここで小さな話をしなければならない。
 ある夜遅く、人気のない大通りを通って帰宅途中、真面目な話の最中でメンデルスゾーンは突然立ち止まり、呼びかけた。
「僕たちパリで大きく飛躍しなきゃいけないよね! というわけでみんなでジャンプしよう、合図で一斉に! いくよ、1、2、3!」
 提案が突然すぎて私は上手にジャンプできなかった気がするが、その時のことは一生忘れないと思う。

 メンデルスゾーンがパリについてすぐ。フランク博士と私が彼の部屋で待っていると、彼は入って来るやいなやニコニコ顔で「奇跡だ! 本物の奇跡!」と言い放った。
 どういうことか尋ねる私達に答えて、彼は続ける。
「ねえ、奇跡じゃないか? エラールのところでリストに会って、彼に協奏曲の自筆譜を見せたんだ。読みやすくもなかっただろうに、ちょっと見ただけですぐ暗譜で弾き出した、他の誰より完璧にだよ、本当にすっごいよ!」
 白状すると、私はそれほど驚かなかった。リストはほとんどどんな曲でも初見で最高の演奏ができてしまうことを、実際に見聞きして知っていたからだ。
 そして2度目に弾く時には、物足りなさからかいつも何か付け加えて弾いていた。

 今やすっかり名を挙げたヴァイオリン奏者、オーレ・ブルの話をし忘れるわけにはいかない。
 彼は神学校から逃げ出したばかりで、初めてパリにやってきたところだった。
 彼の音楽への情熱はまさに底なしだったが、事前に知らされていなかったある特別な才能が彼にはあった。
 彼は、ありとあらゆる聴衆の中で最も面白いのだ。彼の音楽や音楽家に対する見解は、愉快なドイツ語のせいだけではないがとても胡散臭く、私達は大いに楽しませてもらった。
 私たちはよく彼を夕食に招待しては、エンドレスで弾いて聞かせてやった。
 数年後、人気の名演奏家となった彼と再会したが、最初あれだけ喜んでいたスウェーデンっぽさにむしろマンネリを感じてしまった。

 メンデルスゾーンは、ケルビーニにちょくちょく会いに行っていた。
「彼はなんて風変わりなやつなんだろうね!」
 ある日彼は私にそう言った。
「君も同じように考えてると思うんだけど、想いとか心とか感情とか、そんなふうに呼ばれる何かなしに、人は偉大な作曲家になんかなれないよね。でもケルビーニは全部頭だけで作ってる。僕はそう思う、断言するよ」

 別の機会に、8部合唱のアカペラ(確か彼の「汝はペテロなり」(※)だったと思う)をケルビーニに見せた時のことも話してくれた。
「あの爺さん、ほんとに頭でっかちだね。僕はある個所で2つのパートの掛留音を3度で解決していたんだけど、何があっても許してくれないんだ」
 数年後、たまたまこの事件のことを話しているとメンデルスゾーンはこう言った。
「あれは結局あのご老人が正しかったから、そのことについてはもう忘れてほしいんだけどな」

※注 op.111。声楽とオーケストラのための作品。没後に発見された遺作。


解説という名の蛇足(読まなくていいやつ)

 今回は、パリでメンデルスゾーン(とヒラー)がよく交流した人々が3人登場する。
 エピソードもさまざまなので、楽しんで読んでもらえたらうれしい。

 まず最初は、メンデルスゾーン本人の愉快なエピソードから。
 作風や「ライプツィヒ音楽院の初代学長」なんて肩書からか、けっこうお堅い人に見られがちなメンデルスゾーンだが、ここまで読んでくださった方はもう気付いていそうだけど、わりとユーモアのある人だった。
 あるパリの夜、突然「みんなでジャンプしよう」と提案し、答えは聞いてない! とばかりに準備する時間も与えず1、2の3! ときたもんだ。酔っ払いかな?
「イカれた」と訳した部分は、底本の英訳本では「mad」が使われていた。イカれた仲間を紹介するぜ! というノリでこの訳語にしてみた。

 当時のパリは、大通りはガス灯で照らされていたが他の通りはまだオイルランプが現役で、細い路地などはもう真っ暗で治安も悪く、夜はランタンを持った道先案内を雇うくらいだったらしい。
 そんな中を仲間たちでまじめに音楽談義などしてる最中、とつぜんのジャンプ。
 若いころってこういう意味のないことするよね分かるよ、と思いつつ、200年前の偉大な作曲家も現代の若者とさして変わらないのだな、と微笑ましくなったりもする、面白エピソードだ。

 次のエピソードは、フランツ・リストについて。
 リストは以前の記事で紹介もしているし、そもそも紹介の必要もないほど現代でも名の知れた人だと思う。
 ちょうどこの頃パリツアーをしていたパガニーニの演奏に衝撃を受け、ピアノの超絶技巧や、曲芸のような演奏に傾倒していくリストだが、この時はまだそこまでではない。片鱗はあるけど。
 むしろ、『神童ビジネス』に巻き込まれて天才少年として鳴らしてきたリストが、少年期も抜けてこれからどうしていこうかな、と模索しているところだったという印象だ。
(そんな時期にパガニーニの演奏に出会ってしまったのは運命的とも思える)

 リストの初見演奏の腕前は、同時代人が何人も何人も証言してくれている。
 フォーレやグリーグの、ピアノとオーケストラ用の曲を、初見で全パートのバランス見ながらソロピアノ版編曲して弾いてみせた化け物エピソードなどは有名だ。
 そしてヒラーも、メンデルスゾーンも感心してたよ、と載せている。
 ちなみにメンデルスゾーンの別の書簡集では、家族に宛てた手紙の中で同じようにリストの初見演奏を称賛している記述がある。
 ただ、賞讃のあとに「初回は最高、でも2回目以降はちょっと……」と続く内容になっている。
 ヒラーも「リスト本人が物足りなく思ってか」とフォロー(?)しているが、さらに付け加えると、リストが演奏において『ライブ感を大事にする』タイプのパフォーマーだったことも理由の一つではないかと思う。
 同じ曲を弾いても、毎回違うアレンジや即興を聴かせたらしい。公演全通したいとファンに思わせるアーティストだ。

 そして話題はオーレ・ブルへ。
 録音技術のない時代のさだめとも言えるが、名演奏家は作曲家に比べると名が残りにくい。これまでにも何人もの名演奏家や名指導者の名を上げてきたが、現代まで名を遺す人々は、ごく一握りだ。
 オーレ・ブルも、さみしくもそのうちの一人で、現代ではあまり知名度が高くない。と思う。少なくとも筆者は長らく聞いたことがなかった。

★オーレ・ブル(1810-1880)
 ノルウェー出身のヴァイオリン奏者、作曲家、弦楽器製作・収集家、投資家、開拓指導者、民族運動家。
 親からは聖職者になることを望まれたが、音楽家の道を選んだ。
 9歳でベルゲン劇場管弦楽団の第1ヴァイオリンを担当。クリスチャニア音楽院在学中に学長が急逝した際には、18歳にして音楽院とクリスチャニア劇場管弦楽団を監督した。
 ノルウェーで民族意識が高まった際には、ノルウェー民謡を積極的に取り上げ、ノルウェー語の演劇・歌劇を上演するための劇場創設に尽力した。
 リストと親交があり、共演もした。ロベルト・シューマンは「演奏の速さと明確さはパガニーニ級」と称賛。
 他にもアメリカに広大な土地を購入し開拓しようとして失敗したり、弦楽器製作者のヴィヨームに弟子入りし器用に楽器製作もこなすなど、「音楽家」と一括りにできない、いろんなことをやってた人。
 愛用していた1687年製ストラディヴァリウス・ヴァイオリンは、彼の名を冠し「オーレ・ブル」と呼ばれる。

 筆者はオーレ・ブルの名を初めて知ったのが「音楽家の家」(ジェラール・ジュファン他/西村書店)という本の中でだったので、彼への印象はまんまと「変わった家に住んでた人」になってしまった。

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Wikimedia Commonsより
 ブルさんち、外観がこんな感じ。中もすごいので、ご興味ある方は「Ole Bull House」とかで検索してみてね。こことか写真が何枚か見れます(英語・ドイツ語・ノルウェー語サイト)。

 ストラディヴァリウスは超有名な弦楽器の名器だが、使っていた人が有名だとその名を取って呼ばれることがある。そこに名を残すくらいには、当時大人気の演奏家だった。
(Wikipediaのストラディヴァリウスの一覧ページ(英語)は眺めてると結構面白いので、ご興味のある方はぜひ。パガニーニはもちろん、バイヨさんの名がついたヴァイオリンもあるよ)

 先述の通り、ブルさんはノルウェー出身なのだが、当時の北欧三国の政体は変化が目まぐるしく、ブルさんが生まれた頃はデンマーク=ノルウェー、4歳の時にスウェーデン=ノルウェーと、同君連合の相手が変わっている。
 北欧5か国の中でフィンランドと共によく振り回されがちなノルウェーの悲劇については、ちょっと調べただけでも同情を禁じ得ないのだが、本題ではないのでここでは語らない。
 フランス革命に端を発したヨーロッパに吹き荒れた独立の気風は、もちろんノルウェーにも吹き込んでいた。ブルさんも祖国の独立を目指し、音楽という自分の領域で尽力した。
 ヒラーはブルさんについて「スウェーデンっぽい」と言及しているけれど、ブルさん本人はスウェーデンじゃなくてノルウェーだ! と怒るかもしれない。

 ヒラーとメンデルスゾーンは、彼の独特の言葉遣いや訛りを楽しんでいたらしい。大丈夫かなあこれイジメ案件にならない??
 デンマーク語・ノルウェー語・スウェーデン語は、それぞれとても似ていてほとんど方言レベルなのだが(※個人の感想です)、ドイツ語ともだいぶ近い。
 だが、やはりドイツ語を母語とするヒラーやメンデルスゾーンからすると、訛りが面白おかしく聞こえるのだろう。
 その上、独特の感性をもつブルさんの「胡散臭い」感想を聞くのが面白くて、延々と音楽を聞かせまくったというから、やはり前回に引き続き、若者の残酷さみたいなものを感じてしまう。
 しかもそれだけ面白がってたくせに、後年会った時には飽きたなぁと思うなど、勝手なもんだ。

 最後は、そろそろパリ編の準レギュラーみたいになってきた、ケルビーニさんとのエピソード。
 以前の記事でも軽く触れたが、メンデルスゾーンは自身の進路決定において、ケルビーニさんに大きな役割を担ってもらった経緯がある。
 そんな縁もあって、パリ滞在期間中はちょくちょく会いに行っていたらしいが、そこは堅物なケルビーニさんのことなので、ちょっとトガった若者だったメンデルスゾーンにとっては馬が合わない部分があったようだ。
 繰り返しになるが、メンデルスゾーンと言えばその作風は、ロマン派の中では保守派というか古典的と言える。
 そんなメンデルスゾーンに輪をかけて保守派で古典的だったのが、ケルビーニというわけだ。
 メンデルスゾーンがケルビーニについて愚痴を言うところ。作曲とは想い・心・感情などそういった何かでするもの、なのにケルビーニは頭だけで作ってる、とメンデルスゾーンは非難する。
 正直、これはちょっと意外だった。メンデルスゾーンは心とか感情とか込めすぎた曲は好みじゃなさそうだと思っていたので……。

 自作のアカペラ曲の楽譜を見せた時のエピソードは、最後にちょっとかわいいオチが付く。
 掛留音についてのくだりは、筆者も訳していて全く自信がなかった部分なのだが、簡単に言うと不協和音の使い方の一種のようだ。遅れてくる装飾音みたいな。……詳しくは、お近くの和声学に詳しい方に聞いてみてください。
 メンデルスゾーンの「頭でっかち」発言から推測できるかと思うが、掛留音を3度で解決するという使い方は、セオリーからは外れた使い方で、1度で解決するのがよくある使い方らしい。
 筆者は楽典を勉強したことがないのでこの辺りは本当に自信がないが、まあつまりシンプルに言い換えてしまうと、ほんのちょっと斬新なだけで認めてくれないケルビーニマジ頭固いんですけど、ということになる。
 ヒラーはこの時のことを覚えていて、数年後話題に出した。その時メンデルスゾーンは、「あれは結局彼が正しかった」と認めた。
 僕が若かったんだよね、いつまでも覚えてないで忘れてよ、と苦笑するメンデルスゾーンを想像すると少し楽しい。黒歴史ってやつに近いのかもしれない。


次回予告のようなもの

 今回は、メンデルスゾーンと周囲の人々との交流がメインだったが、次回はメンデルスゾーンの天賦の才を感じる、びっくり仰天エピソードの回だ。
 そういうの何回目だっけ。天才エピソードが全然尽きないの、すごい。

 次回、第2章ー7。「管楽器、追加するね」の巻。

 お菓子に情熱を燃やす青年たちも見れます。
 よかったらまた読んでくださいね!

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