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「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 5
第1章-4.フランクフルト、1827年:シェルブル
三声のカノンを含むアルバムの中に、「エーレンブライトシュタイン渓谷、1827年9月27日」と書かれた一葉があるので、メンデルスゾーンと次に会った日の手がかりになった。
その間、私はワイマールでフンメルと一緒にいて、彼と共にウィーンを訪れた。その地で私は、「ピアノ四重奏Op.1」を出版した。
私は再び実家で作業していた。
いつかと同じように中庭を眺めていると、今度は偶然、背の高い光沢のある帽子をかぶった見覚えのない若い男が目に入った。
メンデルスゾーンだと分かったが、見た目がかなり変わった。
彼の体躯は立派に成長し、全身に才気ある雰囲気をまとわせていた。後年時々見られたホンワカと寛いだ空気はこの時にはなかった。
彼は伯父の家で休暇の一部を過ごそうと考え、学友二人と共にコブレンツ近くのホルヒハイムを旅行していた。
彼のフランクフルト滞在は短かったが、最後に会ってから今までに彼が立派に成長したことを目の当たりにするには十分だった。
彼はシェルブルと一緒にいた。この素晴らしい音楽家について語る機会を逃すわけにはいかない。彼はメンデルスゾーンの価値を認め、彼の音楽を送りだすために持てる力全てを捧げた最初の一人だった。
シェルブルは完璧に熟達した音楽家であり、古典作品のひたむきで知性的な演奏を得意とする名ピアニストであり、またかつてはウィーンとフランクフルトの劇場で、ピアノ演奏と同じ精神で培われた素晴らしいバリトンテナーの美声を披露していた。
彼の素晴らしい音楽的才能は、彼に最高の音楽家との接点をもたらした。彼はベートーヴェンと多くの交流を持ち、またシュポーアともとても親しかった。
しかし、その歌唱力をもってステージでの成功を手にしたにも関わらず、彼はその場所に安んじることはなかった。実のところ、彼には演技の才能はなかったようだ。
彼の顔はとても整っており、高貴で表情豊かだが、常に深刻そうな顔で何だかカチコチした態度なものだから、よく学者か牧師と思われていたんじゃないだろうか。少なくともオペラ歌手には見えなかった。
少年時代、初めて彼に紹介された時には、彼は既に劇場を引退してからだいぶ経ち、フランクフルトで一流の教師としての地位を得ていた。そしてのちに彼の最も偉大な功績となるチェチーリア協会の設立について、小さいながら初めの一歩を踏み出した頃だった。
おそらく、合唱協会を設立するのに必要な資質と能力を持ち合わせている者は、シェルブル以外に誰もいなかっただろう。
ピアニストにして歌手、雄弁にして荘厳、示唆に富んだわざ。男達からの尊敬と女性達からの愛慕を一身に受け、最も繊細な耳と雑味のない嗜好、最高の知性を併せ持つ。彼からは、人間としても音楽家としても、素晴らしい影響を受けた。
彼の演出したオラトリオは、ピアノ伴奏でさえあれば(オーケストラ伴奏は合唱の邪魔になるので)、これまでのどの演奏よりも素晴らしいものだった。
彼の精神は、まだ協会に満ちている。彼の弟子メッサーが、長年にわたり同じ理念のもと運営してきた。そして現在は、カール・ミュラーが有能なトップである。
以下、解説という名の蛇足(読まなくていいやつ)
前回(「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 4)投稿した記事で語られていた時期から、はや2年が経った。
1825年から27年までワイマールのフンメルの下で勉強していたヒラーは、楽譜の出版やベートーヴェンの死の床に立ち会い遺髪を手にするなど、様々な経験をして、フランクフルトの実家へ戻っていた。
メンデルスゾーンと初めて会ったあの日のように、窓から中庭を見下ろすヒラー。あの日は今か今かと待てをされたワンコのようにじりじりと待ちわびていたが、今日は別に約束があったわけではなく、本当に偶然、来訪者が目に入った。
最初は一瞬誰か分からなかったが、今や立派な青年となった、メンデルスゾーンだ。
若者らしく、自信に満ち溢れた堂々とした姿が目に浮かぶ。5年前は同じ場所で先生の肩にとびついてキャッキャとはしゃいでいた少年が、立派になってまあ。
「背の高い光沢のある帽子」は、いわゆるシルクハットと呼ばれる形の帽子だろうか。当時の紳士のマストアイテムだったらしい。
ただこの頃はたぶん材質がビーバーの毛皮で、乱獲で絶滅寸前になったのでシルクに切り替えたという経緯がある。ビーバーハットだ。
「後年時々見られたホンワカと寛いだ空気」はまだないとのことなので、若者らしいちょっととがった感じはまだ健在のようだ。
「コブレンツの伯父」が誰なのか調べるのに、少し手間取った。フェリックスの父アブラハムには、男兄弟が2人いる。兄のヨーゼフと弟のナータンだ。
ヨーゼフ・メンデルスゾーンはアブラハムと一緒に銀行を経営していた人物なので、そこそこ有名だ。日本語Wikipediaに記事もある。
だが読めば読むほど、この人ベルリンにずっと住んでそうだな? と思った。
では弟ナータンなのかと思って調べる。彼もベルリン生まれベルリン没だった。メンデルスゾーン一族、ベルリンと縁が深い。
母方のおじも調べた。全員は調べきれなかったが、有名な伯父に母の兄ヤーコプ・ルートヴィヒ・ザロモン・バルトルディがいた。「バルトルディ」の姓を名乗りだしたのは、彼が最初だ。義弟にもこの姓をすすめ、アブラハム一家も同じ姓を名乗りだすことになる。
ヤーコプ伯父さんは、ナポレオンのせいでヨーロッパしっちゃかめっちゃかな時期に生きているので、わりと各地転々としている人だった。ただ、晩年はローマに暮らし、ローマで没した。そもそも没年が1825年だ。該当せずか……。
ここで、5年前に旅行に行ったときにベルリンのメンデルスゾーン・ルミーゼでもらった資料をひっくり返してみた。
メンデルスゾーン・ルミーゼは、メンデルスゾーン銀行の跡地にあるメンデルスゾーン一家の歴史を説く小さな博物館だ。
開館日なのになぜかカギが閉まっていたのでつたない英語で電話して開けてもらい、晴れて入館できたがキャプションはすべてドイツ語で、ぐぬぬとなっていたところに学芸員さんがそっと英語の資料をくれた。やさしい。
どこかにそれっぽい記述がないか探したら、あった。
1818年、ヨーゼフ・メンデルスゾーンがコブレンツ近くのホルヒハイム・ワイナリーを購入していたという記述!
きっとこれのことだ! うわースッキリした! ありがとうメンデルスゾーン・ルミーゼ! ベルリンをご訪問の際はぜひ足を運んでみてね!!
ということでメンデルスゾーンは、18歳の夏~秋を伯父さんのワイナリーで過ごしたと思われる。えっ優雅……。
さてスッキリしたところで、ここからシェルブルさんについての説明が始まる。
シェルブルさんについては、「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 3 でも少し解説をした。
フランクフルトにもベルリンジンクアカデミーみたいな団体を作りたい!と熱意をもってチェチーリア協会を立ち上げた人だ。
せっかくの再登場なので、またもう少し調べてみたら、メンデルスゾーンとの親密さがよく分かる情報を見つけた。
メンデルスゾーンは父が亡くなった際(1835)に彼に宛てて「父を亡くした喪失感を埋められる友人はあなただけです」と書き送っている。
だがシェルブルも1836年に病に倒れ、翌年に亡くなる。
シェルブル不在の間は、メンデルスゾーンがチェチーリア協会の指導を行った。
※この部分、訂正がありますので追記をご覧ください。(7/2追記)
メンデルスゾーンはヒラーに会ったのと同じ1822年にシェルブルさんとも初めて会い、以降頻繁に手紙をやり取りしていたようだ。ツェルターさんへの手紙の中でも、彼と協会をよくべた褒めしている。
そしてヒラーも、シェルブルと直接は関係ないはずの「メンデルスゾーンの手紙と回想」の中でこのべた褒めようなので、本当に素晴らしい音楽家だったのだと思う。
ただまあ、いつもしかつめらしい感じだったのかな? まじめな人だったんでしょうね。
「人間としても音楽家としても尊敬している」って最高級の誉め言葉だと思う。
そんなまじめないいひとシェルブルさんと親しかったシュポーアさんについても少し調べてみた。
前回も、アンドレさんにこき下ろされた人気オペラ「イェソンダ」の作者として名前が挙がっていた彼だ。
★シュポーア(Louis Spohr, 1784-1859)
ドイツの作曲家、ヴァイオリニスト、指揮者。ウィーンや、ゴータ・カッセルなどのドイツ各地で宮廷楽長などの重職につく。ウェーバーとも親しい。
1817-1819までフランクフルト歌劇場の音楽監督を務め、自作のオペラを上演。多作家で多くの曲を残している。
ヴァイオリンの顎あての発明者。現在と同じ形の指揮棒を使い始めたのも、一説によるとシュポーアとのこと(メンデルスゾーンという説もある)。
シェルブルさんと初めて出会ったのがいつどこでなのかは、調べが足りず判明しなかった。
が、1816年にプラハで初演したシュポーア作のオペラ「ファウスト」で主役のファウストを演じたのが、まだ歌手として活躍していたシェルブルさんだった。その時の指揮はウェーバーが務めた。豪華だなあ。
その後フランクフルト歌劇場で仕事してる時も、同じ街の楽壇で活躍するシェルブルさんとはきっとよく顔を合わせたりしたんだろう。
あの時のファウストじゃん! 元気だった!? みたいな再会だったらたのしい。
チェチーリア協会は、同じくフランクフルトを拠点とするオーケストラ、フランクフルト管弦楽団やムゼウム管弦楽団とよくタッグを組み、お互いの公演に参加していたらしい。
チェチーリア協会のメンバーも、発足時26人(21人という資料もあった)からどんどん人数を増やし、1828年には73人だったそうだが、さすがにオーケストラを伴奏にしてしまうと、声が聴きづらいなとヒラーは思ったようだ。
当時のオーケストラは現在よりも人数が少ない編成(多くて20~30人)が主流だったとはいえ、確かにピアノ伴奏のほうが聴きやすいのは間違いない。
先ほど書いた通り、八面六臂の大活躍をしていたシェルブルさんは、1837年に48歳の若さで亡くなってしまう。
その悲しみに暮れるチェチーリア協会を指導したのは、メンデルスゾーンだった。
最後に名前の出てくる後継者、「メッサ―」と「カール・ミュラー」を調べた。彼らについても、なかなか資料がみつからなくて困った。
★フランツ・ヨーゼフ・メッサー(Franz Joseph Messer, 1811-1860)
ドイツの作曲家、指揮者、合唱指導者。
11歳でチェチーリア協会のメンバーとして加わる。1826年からシェルブルに師事。
1840年からチェチーリア協会の主宰。1847年からフランクフルト管弦楽団、1848年からムゼウム管弦楽団も監督。
★カール・ハインリヒ・ミュラー(Carl Heinrich Müller, 1818-1894)
びっくりするくらい資料が見つからない。
1846~60年までミュンスターの楽友協会で指導。その後フランクフルトのチェチーリア協会を指導したらしい。
必死こいて見つけた資料によると、シェルブルさんの弟子・メッサ―さんがチェチーリア協会の主宰に就いたのが1840年とのこと。
そうするとメンデルスゾーンは、1837年から1840年まで、チェチーリア協会を指導したのかもしれない。
メッサーさんの没年とミュラーさんの就任年を合わせて考えると、
初代:シェルブル(任期1818~1837)
2代:メンデルスゾーン(任期1837~1840)
3代:メッサ―(任期1740~1860)
4代:ミュラー(任期1860~?)
といった感じか。メッサーさんも亡くなるの早いな……激務だったのかな……などと勘ぐってしまう。49歳……。
※この部分、のちに情報をいただいたので追記をご覧ください。(7/2追記)
ちなみにチェチーリア協会はその名を「チェチーリア合唱団」に変えて現在も存続しているので、webサイトがある。
合唱団の歴史やシェルブルさんについてのページもあるので、ドイツ語が読める方は興味があったら読んでみてほしい。そして私に情報を教えてほしい。
合唱団が長年大事に守ってきた楽譜や資料は、ゲーテ大学フランクフルトの図書館が所蔵している。その中で、オンラインで見られる画像を2つ見つけたのでリンクを貼っておく。1847年1月21日と1854年2月23日の演奏会プログラムだ。
メッサーさんが主宰していたころだが、どちらの演奏会でもメンデルスゾーンの曲を取り上げているのが、なんか嬉しいというか、敬愛を感じる。
表紙だけ以下に掲載しておく。
1847年の演目に含まれているのは、詩篇114篇「イスラエルの民はエジプトを出で」op.51。
1854年は詩篇115篇「我らにではなく、主よ」op.31です。
チェチーリア協会は、教会音楽を主に扱っていたので、メンデルスゾーンの詩篇歌がとりあげられている。
リンク先ではプログラムの中身も見れるので(基本的に歌詞が載っている)、興味のある方は見てみてほしい。
次回予告のようなもの
ついつい本文から横道をそれがちな解説になってしまう。「読まなくてもいいやつ」と書いてあるし、まあいいか。
次回は第1章-5。
フランクフルト、1827年:新曲の作曲 の巻です。
新曲をひっさげ、チェチーリア協会に顔を出したメンデルスゾーン。その演奏を聴いた時のメンバーの反応やいかに!
よかったらまた、暇つぶしにどうぞ。
7/2追記:お詫びと訂正
チェチーリア協会の音楽監督について、「フェルディナント・リースさんもやってましたよ!」という情報をツイッターでいただき、調べてみた。
リースさん(1784-1838)はベートーヴェンに師事したピアニスト・作曲家・指揮者・音楽教育家で、1827年からフランクフルトに拠点を置いていた。フンメルさんなどと同じく死後はその名を忘れられてしまったが、この頃はまだ名を馳せていた。
特に、ライン川下流域音楽祭(この伝記にものちのち出てくる)の音楽監督に就任してからは、声楽作品(オペラ・オラトリオなど)の作曲・指導にも力を入れていて、フランクフルトにもその名が届いていたようだ。
シェルブルの死後、チェチーリア協会の主宰を継いでくれないかというオファーがあった。リースさんはそれを引き受けたのだが、それから1年も経たずに鬼籍に入ってしまった。
チェチーリア協会は質の良い合唱団なので、きっと、あれをやりたいこれもやりたい、と考えていたと思うのだが、残念……。
そういうわけで、上記した音楽監督のリストを作り直すことにした。
(そのまま書き直すのではなく追記という形にしたのは、調査不足で間違いを書いたことを忘れないためです。自戒自戒……)
チェチーリア協会の英語の資料が見つからないので、ドイツ語で検索をかけたら、2018年の200周年記念小冊子らしきebookを見つけた。
そこに1818年から2018年までの歴史を記したページがあったので、翻訳エンジン諸先生の力を借りて解読してみたところ、大変なことが分かった。
初代:シェルブル(任期1818~1837)
(代理:ヒラー 1837)
2代:リース(任期1837~1838)
3代:フォークト(任期1838~1840)
(代理:グーア 1839)
4代:メッサ―(任期1840~1860)
(代理:フリードリヒ 1860)
5代:ミュラー(任期1860~1891)
……メンデルスゾーンおらんやん!?
なんで「シェルブル不在の間は、メンデルスゾーンがチェチーリア協会の指導を行った。」などと書いてしまったんだっけ? どこでこの記述見たんだっけ?? と記憶をたどると、シェルブルさんの英語版wikipediaだった。くそ~やられた~。
正直Wikipediaさん便利すぎて、つい調べ物に多用してしまうのだけど、これからはほかのソースも確認するようにしようと心に決めた。
間違った情報をお伝えしてしまい本当に申し訳ありませんでした。
あと地味にヒラーが監督してるのも驚いたんですけど。言ってよ。
(この後訳していけば言ってくれてるのかもしれないけど)
以上、お詫びと訂正でした。
これからも何か間違い等あればご指摘お待ちしております!
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