「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 14
第2章-7.パリ、1831年~1832年:管楽器、追加するね
フェリックスの素晴らしい音楽の記憶能力は、私達にとっても彼自身にとっても、大きな喜びの源だった。
それは単なる暗記力ではなく、過去の経験を保持し思い出せる力だ――しかもあれほどの!
音楽界の面々が集まる小さなパーティーに一緒に出席した時のことだ。ふと会話が途切れると、彼はピアノの前に座り、ある風変りな曲を弾いて、この作曲者は誰かとクイズを出した。
ある時はハイドンのオラトリオ「四季」からアリアを弾いた。
『旅人は今ここで立ち止まる どこへ踏み出したものかを 見失い困惑して』
この演奏に、精巧なヴァイオリンの伴奏は一音たりとも欠けていなかった。
それはまったく普通のピアノ曲のように聞こえ、私達はだいぶ長い間、オラトリオの旅人と同じように「困惑」して立ち尽くしていた。
素晴らしいアマチュア音楽家のバルダン司祭は、週に一度、昼下がりにプロアマ問わず多くの音楽家を自宅に招いていた。そこでは数多の音楽が非常に真剣に、通しで、リハーサルもなしで演奏されていた。
私は先だっての公開演奏会でベートーヴェンの協奏曲変ホ長調を弾いたところだったが、その集いでももう一度弾いてくれないかと頼まれた。
全ての楽器は揃っており、弦楽四重奏団もいたが、管楽器の演奏家がいなかった。
「じゃあ、僕が管楽器をやるよ」
メンデルスゾーンはそう言って、グランドピアノのそばに佇む小さなピアノの前に座る。
そして記憶だけで管楽器のパートを完全に再現してみせた。セカンドホルンが足りないな、と思わせることすらもなく。
それらすべて、何でもないことのように自然にやってのけたのだ。
あれは人気の集まりだった。招待がない時は、私たちはたいてい午後に会っていた。
午前中から出かけなくていいようにランチを抜くことは苦ではなかったが、ディナーの少し前にはいつも腹ペコになり、菓子屋へ向かうのは絶対に必要なことだった。
あの頃の私達は、菓子への情熱に溺れたいがための口実として断食していたんじゃないかと思う。
解説という名の蛇足(読まなくていいやつ)
メンデルスゾーンはその伝記などでもよく取り上げられる天才エピソードのひとつに、「一度聞いた曲は全て完璧に覚え、自分で再現することができる」というものがある。
今回はその能力について語られる項だ。創作をしているみなさんは、自作に「天才音楽家」を登場させるときの参考にしていただきたい(?)。
筆者は口が裂けても上流とは言えない生まれ育ちなので、「サロン」というものは文献などでしか知らない。が、現代でも、それと似た集まりをしている人はいるような気がしている。
言ってしまえば知り合いで集まって、音楽が得意な人が楽器を弾いたり歌を歌ったり、文才がある人が詩や散文を朗読したり、それを聞きながら飲み食いしたりおしゃべりしたりする会だ。
知り合いがまたその知り合いを連れてきて、人脈が広がることもある。社交の場でもあるけれど、小規模な私的サロンなら本当に身内の集まりだ。
ほら、してる人いそうでしょ? もしかしたらこれをお読みの方も、「そうか、あの集まりってサロンだったのか……」という心当たりがあるかもしれない。
当時のパリの上流階級やブルジョワの人々は、自分がいかに文化的かという点でマウントを取り合うフェイズにあった。金を持ってるだけじゃだめで、自分のセンスを競い合うのだ。
自分のサロンにどれだけ、貴族階級の人や著名人、芸術家を呼べるか。
人を集めるために調度品や料理・酒にもこだわって、あの人が来てくれたらそのお友達のあの人も来てくれるだろうし、この期間はドイツ在住のだれだれさんがパリにいらっしゃるからお呼びできないかしら、etcetc。
サロンに呼ばれる方も、評判のサロンにお呼ばれされれば箔が付く。駆け出しの音楽家などは、最初にいろんなサロンに出席して社交界に顔を売るのが出世の近道だったようだ。
画像:Gallicaより
これはメンデルスゾーンたちと同時代人のピアニスト、アンリ・エルツのサロンの図。1830年頃の絵だ。
ピアノの前に座っているのがエルツさん。ピアノの後ろにはハープが置いてあり、また左側の女性はテーブルの上の花瓶をスケッチしている。芸術サロンと言えるだろうか。
画像:Gallicaより
こちらはもう少し規模の大きなサロン。
ショパンのピアノの弟子でもあった大人気歌手、ポーリーヌ・ヴィアルドー夫人のサロンの図。1853年頃の絵だ。自宅にオルガンあるのすごいな。
右下隅の男性二人は、音楽よりもおしゃべりが目的で来てる可能性がある。
当時のパリではサロンどころかコンサートの演奏中でも、おしゃべりするのは普通だったらしい。
画像:Wikimedia Commonsより
こちらはさらに大きなサロン。部屋の外の階段まで人がぎっしりだ。
時代も少し下って、1875年ごろの絵画らしい。
画面右側にインドかアラブの人らしき男性二人がいる。もしかしたらこの人たちが主賓かもしれない。
メンデルスゾーンもパリ滞在中は、友人たちの紹介やお誘いでいろんなサロンに顔を出したことと思う。
そんな集まりの中、メンデルスゾーンは音楽家たちにクイズを出す。
つまり、イントロクイズだ。
ヒラーは当時のパリでは大人気活躍中で結構顔の広い音楽家だったので、そのパーティーに集まった音楽家たちも、それなり以上の人々が多かっただろう。
だが、そこにいる誰一人、メンデルスゾーンのイントロクイズに答えられなかった時があった。
ハイドンの「四季」は、ハイドンさんのオラトリオの中では「天地創造」と並んで有名な曲らしい。
もちろん当時も、しかも音楽家の間で、知らない者は少なかっただろう。
それでも、ヴァイオリンの伴奏がピアノになっただけで、何の曲か分からなくなってしまうのは面白い。
聞きなれた曲は逆に、いつもとちょっと違うだけで全く別の曲に聞こえてしまうものなのかもしれない。
楽器を変えての演奏については、この後も何度か登場する。
当時はCDどころかレコードも蓄音機もない時代なので、現在のCD屋さんは当時では楽譜屋さんだ。音楽を買う=楽譜を買うだった時代。
音楽を聴きたいと思ったらその場にある楽器といる奏者で弾かないといけない。
オーケストラ曲のピアノ編曲版や室内楽編曲版は、当時よく出版されよく売れた楽譜だったようだ。
ヒラーが歌詞を引用しているのは、オラトリオ「四季」の「冬」にあたる個所。第32曲のアリアだ。
歌詞に出てくる旅人のように立ち尽くすヒラー達と、くすくす笑うメンデルスゾーンを想像するとたのしい。結局誰かが当てることができたのか、それとも全員降参したのか、どうだったんだろう?
底本では「Abbé Bardin」となっているバルダン司祭は、調べるのに時間がかかった。それは筆者が「アベ」という単語を知らなかったからなのだが。
★(アベ・)ジャン・バルダン(Abbé Jean Baptiste Edme Bardin, 1790–1857)
フランスのカトリック教会司祭、アマチュア音楽家。
サン・ヴァンサン・ド・ポール教会の司祭を36年間務め、フランツ・リストの聴罪司祭として有名。
またアマチュアのヴァイオリン奏者としても名が知られており、サン・ヴァンサン・ド・ポール教会での室内楽コンサートなどを開催。ウルハン、リストなどの音楽家を自宅に招き音楽サロンを開いていた。
「アベ」とはカトリック派の司祭のことで、フランスでは叙階に関わらず若い聖職者を指すことが多いらしい。
ファーストネームがアベなのだとばかり思っていた。またひとつ賢くなった……ということにしておく。
どうでもいいけどジャン・バルジャンに名前が似ているなと思った。本当にどうでもいいけど。
そのサロンでヒラーは、ベートーヴェンのピアノ協奏曲を弾くことになったらしい。
ベートーヴェンのピアノ協奏曲変ホ長調は、第5番。「皇帝」という愛称で呼ばれている有名曲だ。
ヒラーは1829年の11月に、この曲のパリ初演でピアノ独奏を担当している。それ以降、ヒラーの十八番になったんだろうか。この曲はピアニストの協奏曲レパートリーとしては当時人気が出始めた頃で、少し年代が下ってからだとは思うがリストも好んで弾いたといわれている。
この曲のもとの編成は、弦楽5(ヴァイオリン2、ヴィオラ、チェロ、コントラバス)、フルート2、オーボエ2、クラリネット2、バスーン(ファゴット)2、ホルン2、トランペット2、ティンパニ。
「全ての楽器は揃っていた」と言うが、奏者がいないんじゃ意味がない。魔法の楽器ではないので、勝手に鳴ってはくれないのだ。
そこでメンデルスゾーンは、「じゃあ僕が管楽器をやるよ」と言い出した。
メンデルスゾーンのことだから、管楽器もいくつかは吹けるのかもしれない。しかも上手なのかもしれない。でも、ここで足りない奏者は12人。どう頑張ったって無理だ。
どうするのかと見守る一同の前で、メンデルスゾーンはグランドピアノのそばにある小さなピアノで、記憶だけを頼りに、その場で管楽器12パート分をピアノ独奏編曲にして弾いたらしいのだ。
前回、リストの初見演奏能力について説明した時にも似たエピソードを紹介したが、メンデルスゾーンも全く負けていない。19世紀のピアニストは化け物だらけか。
バルダン司祭の音楽サロンには、著名な音楽家が多く集ったそうなので、それは人気の集まりだっただろう。筆者も参加してみたかった……と言いたいところだが、弾ける楽器はないので隣の部屋にでも住んで音漏れを楽しみたいものです。
特に招待のない日には、メンデルスゾーンとヒラーの2人で会っていたらしい。
パリのサロンでも夜開かれるもの(夜会)は、深夜2~3時までやるのが普通らしいので、パリの紳士淑女は夜更かしだ。午前中は寝ていたい感じだろう。
2人で会う時は、朝のんびりできるように午後から約束していたらしい。そのため、ランチを抜いていたようだ。
「ランチを抜くのは苦ではなかった」と書いてはいるが、ディナーの前にはいつも腹ペコだったようなので、それは「苦ではなかった」とは言えないのでは? と思ってしまう。が、これにはまたしても、かわいいオチがつく(※かわいいと思うかどうかは個人差があります)。
ディナー前に腹ペコになってしまうので、お菓子屋さんへ向かうのが必須だったらしい。男2人でお菓子屋さんに。毎回絶対欠かせない行先としてお菓子屋さん。かわいいね!!!!!(大声)
これは現代のパリのお菓子屋さんだけど、中はお菓子がたくさん並んでてテンションあがりました。
この当時は固形チョコレートはまだないので、キャラメルやトフィー、ヌガー、焼き菓子類などがメインだろうか。
そして極めつけの告白、菓子への情熱に溺れたいがための口実として、ランチを抜いていたと。
ランチを抜くのは苦じゃない、とかちょっとカッコつけておきながら、いや実はお菓子食べたいだけだったんだよねテヘペロだと。かわいいね!!!!!!(二度目)
以上、19世紀のスイーツ男子たちの話でした。
次回予告のようなもの
筆者はついつい「天才」という単語を多用してしまうのだが、メンデルスゾーンはただの天才ではなく努力する天才だと思っている。
ただ、このシリーズは翻訳シリーズなので、ヒラーおじいちゃんが書いたとおりに訳すと結局天才エピソードだらけになってしまうのだ。仕方ない。
でも序文でも書いていたとおり、可愛いエピソードや面白エピソードも盛りだくさんなので、訳していて楽しいです。
読んでくださってる方も、楽しんでいただけているといいんですが。
さて次回は、第2章-8.レオンティーヌ・フェイの巻。
2人で会う時、メンデルスゾーンとヒラーが(お菓子屋さんの次に)よく行く場所とは?
来週もまた読んでくれよな!