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「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 12

第2章-5.パリ、1831~32年:カルクブレンナー

 ショパンはメンデルスゾーンと同時期にミュンヘンにいて、そこで演奏会を開き、その類稀な才能を披露していた。
 彼が全くの異邦人としてパリに到着した時、カルクブレンナーから非常に親切な歓待を受けた。実際彼はとてもよく洗練された如才ない良い歓待役で、人々の賞讃に値する人物だ。
 カルクブレンナーは間違いなくショパンの才能を認めていたが、少々恩着せがましい態度をとった。
 一例をあげると、彼はショパンの『テクニック』がまだ十分でないと考え、彼がつくった上級者のためのクラスに出席してはどうかとアドバイスをした。
 ショパンはいつも上品で気立てのよい人だから、すっぱりと断ってしまうのをためらい、そのクラスがどんなものか2、3回確認しに行ったのだ。
 メンデルスゾーンはショパンの才能を高く評価していたので、それを聞いて大激怒。一方その頃ベルリンでも、カルクブレンナーの大ボラにウンザリさせられていた。

 ある夜、メンデルスゾーン一家の邸でカルクブレンナーが大幻想曲を演奏した。ファニーがこれは即興ですかと尋ねたところ、彼は肯定した。
 しかし翌朝彼らは発見してしまった。即興であったはずの幻想曲が「あふれ出る音楽」というタイトルの印刷楽譜になっているのを。
 そういうわけで、ショパンがカルクブレンナーの弟子になるとか、完全に狂気の沙汰だから丁重に辞退すべきだとメンデルスゾーンは思い、そしてその厄介ごとについて遠慮なく意見を述べた。

 そうこうしているうち、一連の出来事はすぐに当然の結果におちついた。
 ショパンはプレイエルホールでソワレ公演を開催し、音楽界の名士たち全てがそこへ集った。彼は自作の協奏曲ホ短調、マズルカとノクターンを数曲演奏し、全ての人々を驚かせた。
 これ以降、『テクニック』の不足とやらについて聞くことはなく、メンデルスゾーンは誇らしげに褒め称えていた。

 カルクブレンナーとメンデルスゾーンの関係は、常にやや雲行きが怪しかったが、メンデルスゾーンでもカルクブレンナーの活躍ぶりを全否定することはできなかった。
 私たちは数度カルクブレンナー宅でディナーを共にしたし、すべて穏便に進んだが、カルクブレンナーのピアノで何か弾いてくれとフェリックスに頼むことはさすがにできなかった。

 実際、私たちは誰もがカルクブレンナーの慇懃なふるまいにたいへん感謝しておらず、彼を小突き回しては不純に楽しんでいた。
 ある日の思い出だ。私達――メンデルスゾーン、ショパン、リスト、私は、めったに行かない時期と時間にイタリアン通りのカフェの前にいた。
 そこへ偶然、カルクブレンナーがやってくるのが見えた。
 常に完璧な紳士たることを抱負としている彼が、私達のような騒がしい一団に会うことをどれだけ疎ましく思っているか、私達はよーく知っていた。
 私達は彼を親し気に取り囲み、一斉にマシンガントークをぶつける猛攻撃を仕掛けた。彼はほとんど絶望に追い込まれ、私たちはもちろん大喜びだった。
 若者って残酷なものだ。若気の至りだ。


以下、解説という名の蛇足(読まなくていいやつ)

 連日暑すぎてどうにかなりそうな気候だが、こちらの翻訳は現在冬のパリだ。
 特に涼しいエピソードがあるわけではないが、楽しんでいただけたら嬉しい。
 今回は、メンデルスゾーンの伝記よりはショパンの伝記によく登場するエピソード。
 ちょっと疎まれ気味の大御所ピアニストに、ガラの悪い若手大人気ピアニストたちがウェイウェイと絡む、あの話だ。

 ショパンとメンデルスゾーンは、パリ以前からの顔見知りだった。
 ここにもある通り、初めて顔を合わせたのはミュンヘン。ショパンがポーランドを出立し、ウィーンで開花できずパリへ向かう途中でのことだ。ショパンは1831年の8月に、ミュンヘンで日曜演奏会に招待出演している。
 ちなみに、その前にもショパンがベルリン旅行をした時などにニアミスしているのだが、その時ショパンは、大人気音楽家のメンデルスゾーンに気が引けてしまって話しかけられなかったらしい。
 そうは言ってもショパンだって、ワルシャワやウィーンではそれなりに名を馳せている人気のピアニストだったのだが。ショパンが内気だということもあるだろうがそれだけではなく、メンデルスゾーンの人気が頭一つとび抜けていたことが伺える話だと思う。
 ともかく、ミュンヘンで知り合った二人の若き音楽家は、お互いの才能を認めた。そしてパリで数か月ぶりの再会を果たす。
 だがメンデルスゾーンは、おこだった。カルクブレンナーのショパンに対する態度に、だ。

 カルクブレンナーは以前の記事でも少し紹介したが、当時パリで一番のピアニストと言って差し支えない、大御所ピアニストだ。
 若手音楽家への援助や後進の指導にも力を入れ、ピアノに関する新技術開発への出資や、ピアノ学習者のための矯正器具を売り出したり、手広くやってる有名人。
 ただのこの人、ケルビーニさんとはまた違った種類の、「まあ悪い人じゃないんだけど……」と言われちゃうタイプの人だった。
 ちょっと見栄っ張りで、上から目線で、偉そうなわりに、ものすごいベルリン(の労働者階級)訛りで、自慢が大好き。
 童話にでも出てきそうな、典型的な嫌な奴じゃない? たぶんスネ夫タイプだよ。
 ケルビーニさんはまじめな堅物で融通利かない感じがちょっと敬遠されがちだったけど、カルクブレンナーさんは敬遠するというよりはイジられていた感じがする。

 ショパンも最初はカルクブレンナーを尊敬していたのだが、カルクブレンナーに3年師事してからデビューしたらと言われて、さすがに「長すぎでは?」と疑問に思ったらしい。
 故郷に相談の手紙を送っているし、そしてショパンの恩師もそんなん行かなくていい! とやっぱり激怒している。
 メンデルスゾーンも、あと多分ヒラーも同じく、君にはそんなの全く必要ないから! と率直な意見を(おそらく直接)述べたのだろう。
 ヒラーはここで『テクニック』という単語をフランス語で書いており、すごく皮肉っぽく見える。カルクブレンナー大先生がおっしゃる『テクニック』とやら、くらいの印象を受けた。
 でも、すっぱり断れずに見学にまで行ってるショパンは、ちょっとおもしろい。そのまま押し切られて入学させられなくてよかったね。
 一応フォローしておくと、カルクブレンナーのこの上級者クラスは、マリー・モーク(のちのプレイエル夫人)やスタマティなど当時の名ピアニストたちを何人も輩出しているので、詐欺というわけではない。

 さらに同じ頃、ベルリンにあるメンデルスゾーンの実家でも、カルクブレンナーへの信頼度が下がるような出来事があった。
 メンデルスゾーンの実家では、以前は母が主催していた日曜音楽会を姉のファニーがみごとに復活させており、メンデルスゾーン邸の音楽サロンは、ベルリン在住の名演奏家たちと、ベルリンを訪れた名演奏家たちによって彩られた。
 カルクブレンナーさんが演奏したのが、このサロンでのことなのかそれとも個人的なものだったのかは分からないが、ドイツでも名の知れたカルクブレンナーの演奏だ。メンデルスゾーン家の人々も大満足だった。

 この時カルクブレンナーが弾いた大幻想曲は、Op.68だと思われる。1823年に出版されたこの曲を弾き、ファニーに「これ即興ですか?」と尋ねられたカルクブレンナーは、そうですよと答えたらしい。
 いやあそれはすごい、とメンデルスゾーン家の人々は褒めたたえただろう。
 だが次の日、その曲のすでに出版された楽譜が見つかってしまう。すごいコメディ感ある。ギャグマンガみたいだ。
 メンデルスゾーンは旅の間も家族と頻繁に手紙のやりとりをしている。きっとこのエピソードも、父母かファニーの手紙で聞いて、カルクブレンナーへの好感度を下げていたのだろう。
 あの人の言うこと信じちゃだめだよ! とショパンに語る口調にも力が入るってものだ。

 この一連のドタバタ劇は、ショパンが2月の暮れにパリデビューコンサートを成功させたことで落着した。
 実際はチケットが高くて(この値段を設定したのもカルクブレンナー)、あまり客が入らなかったらしいのだが、メンデルスゾーンはじめ音楽界の著名人たちが集まり、有名批評家のフェティスらが賞讃したことで、以降のショパンの人気は固まった。
 つまりまあ長期的に見てコンサートは成功したと言える……たぶん。

 最初はこのコンサートに共演者として出演する予定だったメンデルスゾーンだが、当日は客席で鑑賞したらしい。度重なる延期のせいでスケジュールが立たなかったのか、他の理由なのかは定かではない。
 ちなみにヒラーは共演者として舞台に立った。カルクブレンナーも交えて、6台ピアノ6人連弾(!)を披露したりしている。
 誇らしげに褒めたたえるメンデルスゾーンを想像するとかわいらしい。「ほら言ったでしょ!」みたいに鼻高々で、友人の成功とそれを信じていた自分の判断を誇るの、かわいらしい。

 カルクブレンナーとメンデルスゾーンは、当たり障りなくディナーなど共にしたらしいが、いつも雲行きが怪しかった、というヒラーの言は面白い。
 おじいちゃんヒラー、わりと言葉を選んでこの本を執筆しているように思うのだが、それでもこの書きようということは、だいぶ相性が悪かったんだろうなと推測できる。
 どちらかといえばガツガツ前に出ていくタイプではなく、謙虚で穏やかな姿勢を崩さないメンデルスゾーンと、上述の通りちょっと見栄っ張りで上から目線で、自慢が大好きなカルクブレンナーでは、まあ確かに合いそうもない。
 さすがのヒラーもカルクブレンナー宅で「演奏してよ」とは言えなかったらしい。むしろ早く切り上げて帰りたかったんじゃなかろうか。

 ここからは若気の至りエピソードが語られる。ショパンの伝記でみたやつだ!
 カルクブレンナーの慇懃さには誰もが「たいへん感謝しておらず(←この言い回し、Google翻訳が出してきたちょっと不思議な日本語なのだけど、面白かったからそのまま採用した)」、見つけると揶揄ったりイジったりして遊んでいたらしい。わぁ不良。
 イタリアン通りというのは、イタリアン劇場(オペラ・コミック座)のあった通りで、パリ大改造を経ても現存する。

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 こちらは19世紀前半の、イタリアン通りの様子。馬車や人々でとても賑わっている。
 人気高級レストランのカフェ・アングレや、アイスクリームが有名なカフェ・トルトニ、レストランや休憩室付きのスパ中国浴場などなど、人気の店が立ち並ぶ通りだった。どのカフェだったのかな。
 そこに珍しく集った4人組のところへ、偶然カルクブレンナーがやってくる。格好のおもちゃが向こうから来てくれやがったぜ~! という気持ちだったんだろうか。

 さっきからカルクブレンナーさんのことをちょっと見栄っ張りで上から目線で自慢が大好きと繰り返しているが、さらに紳士ぶりたい属性もあるらしい。
 本当に若者にからかわれる要素だらけの人だ。若者にからかわれるカルクブレンナーのエピソードをまとめたら、本が1冊くらいはできそうな気がしてきた。
 一見すると、大先生を親しげに囲み談笑してるかのように見えただろうところも、タチが悪い。以前他の資料では、「卑猥な言葉を浴びせかけた」という記述も見た気がするが、この本ではそこまでは言ってなかった。
 ヒラーにはぜひ、内容まで詳細に記録してほしかったものだ。彼はカルクブレンナーさんに対してそこそこ角の立たない表現を使っているが、それはおじいちゃんになった執筆時だからこそ書けた文章だと思う。
 だからこそ、この結びが出てきたんだろう。
 もしかしたらおじいちゃんになったヒラーも、若者から揶揄われたりした経験があったんだろうか?(笑)

次回予告のようなもの

 今回はカルクブレンナーの独壇場だった。面白エピソードがたくさんあるので、調べてみたい人物だ。

 次回もわりと、「若者の残酷さ」がよく見えるエピソードが続く。
 言わずと知れた鍵盤の魔術師フランツ・リスト、ノルウェー出身のヴァイオリニストのオーレ・ブル、そして堅物ケルビーニ翁などが登場。

 次回、第2章-6.パリ、1831~32年:オーレ・ブルとケルビーニの巻。

 あなたの暇つぶしになれば幸いです。

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