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「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 31

第4章-7.フランクフルト、1836年:手紙を焼くか、君が焼けるか


 ここにも音楽関連の人々がいるので、一人になることもできません。もし鼻であしらったりしたら、腹を立ててしまうでしょうし。
 スヘフェニンゲンで水浴したあと洗い髪を背中に垂らしたまま歩き回っているライプツィヒのご婦人方がいて、見苦しく思ったのですが、君だったらむしろ見たがるのかもね。
 僕の唯一の慰めは某氏です。それを聞けば僕がどれほど遠くへ来てしまったか分かるでしょう。しかし、彼もまた死ぬほど退屈しているので、僕たちは同調しています。
 彼は、その気になれば明日にでも海の水を抜き去ってしまえるような顔で海を眺め続けています。でもそんなことはどうでもよくて、僕は彼と散歩したいのです。ライプツィヒのご婦人たちの長い髪とじゃなく、彼とね。

 ついには僕はSの息子がラテン語でコルネリウス・ネポスを勉強するのを見てやり、ペンを直してやり、パンとバターを切ってあげて、朝晩に紅茶をいれてやらなければならなくなりました。今日は彼をなんとかうまくおだてて、水の中に入れさせました。彼はいつも父親と一緒になってびくびくしながら喚いていたので。
 ハーグでの生活はこんな感じです。プファライゼンにいられたらよかったのに。

 やっぱりすぐに返事を書いて、尋ねたこと全て教えてください。そして少し僕を慰めてほしい……。
 フランクフルトで一緒に過ごした時間はとても楽しかったです。僕は滅多にそんなこと口に出さないけれど、心から感謝していると、いま君に伝えておかないと。
 夜のマイン川沿いを君の家まで何時間も歩き通したこと。君のソファに寝転がってた昼下がり。君はとても退屈していたかもしれないけど、僕は全然そうじゃなかった――あの時間は忘れられません。
 君とたまに短い時間しか顔を合わせられないのはとても残念だし、そうじゃない方が僕ら二人にとって喜ばしいことですよね。それともまさか、そろそろ僕ら喧嘩の一つでもするべきだって思いますか? そんなわけないよね。

 僕が発ってから、僕のお気に入りのライプツィヒ序曲について考えてくれましたか? 僕が帰った時には完成版を見せてくださいね。君ならあと数日で出来ちゃうでしょう。写譜以外は難しいこともないと思います。あと僕のピアノ曲、あれはどうですか? ここでは音楽のことは考えられないですが、いい絵は描けました。もしかしたら、音楽を取り戻すこともできるかもしれません。
 チェチーリア協会は今どうしていますか? まだ活発ですか、それともいびきをかいて寝ている? フランクフルト時代に親しんだいろいろなものが遠くなってしまいました……。

 Xから今日、Hが婚約したと聞きましたが、本当ですか? 君も早く結婚しないといけませんね。M夫人なんてどうですか? 彼女と、ダルムシュタットのご婦人にはもう会いましたか?
 フランクフルトのこと全部、僕に書いて送ってください。
 マドモワゼルJに、僕の部屋にはトゥーロンの街並みを描いた版画が一つ飾ってあって、だからトゥーロン出身のあなたのことがいつも思い出されます、と伝えてください。
 それから君のお母さんに、くれぐれもよろしくと。あとは返事を早く早く。
 僕の忍耐力が尽きなければ、ここには8月の24日か26日まで滞在する予定です。そのあと、陸路か水路で自由都市フランクフルトへ戻ります。ああ、今そこにいたらよかったのに!

 君がもしこの手紙を誰かに見せたら、僕は例え自分が絞首刑になろうと君をローストしてやるからね。だからしっかりしまっておくか焼き捨ててください。でも返事はすぐに書いてください。ハーグの郵便局留めでお願いします。
 それでは。すぐに返事を書いてください。よろしくお願いします。

君の F.M.B


 おわかりいただけるだろうが、私はこの手紙を焼き捨てなかったし、しっかりしまってもおかなかった。それも今となっては、さして咎められはしないはずだ。


解説という名の蛇足(読まなくていいやつ)

 前回に引き続き、1836年8月7日付・ハーグ発のメンデルスゾーンからヒラーへの手紙を紹介している。
 前半ではフランクフルトのセシルさんが恋しくて、(でも表向きはヒラーの住所である)「プファライゼンにいたかった!」を連発していた。後半も変わらず泣き言を連ねている(笑)。

 20代の若さでドイツ楽壇の有力者となっているメンデルスゾーンは、音楽関係者がいる場所ではなかなか一人の時間が取れないでいた。
 以前の記事で紹介した、フランクフルトを訪れたロッシーニとまではいかなくとも、あいさつ回りや劇場・オケの見学などで各所を引き回されたことだろう。
 水浴はS他同行者が何人かいるようだし、ジョギングしていても自分を知っている地元の人に声を掛けられる。メンデルスゾーンは一人の時間を大事にしたいタイプのようだ。創作をする人・芸術家にはよくいるタイプな気がする。

 そんな中、水浴後に髪も結わずに洗い髪を背中に垂らしたままのご婦人を見かけて、ちょっと眉をしかめるメンデルスゾーン。ライプツィヒのご婦人という事は、一緒に来た一行の中にいた人なのだろうか。
 当時のご婦人方のメイクやヘアスタイルなどは、こちらのサイトが楽しい。
 ポーラ文化研究所 化粧文化
 他にも、「19c fashion plate」などでgoogle検索すると、当時のいわゆるファッション雑誌に似た「ファッションプレート」という絵がたくさん出てくるので参考にしてみてほしい。
 ワシントン大学 ファッションプレートコレクション
 1836年当時は、「Romantic」と「Victorian」の間くらい。
 当時も婦人ファッションの流行は変遷が激しく、だいたい10年ごとにガラっとシルエットが変わる印象だ。
 か弱い系が流行ったこの頃は、二の腕のあたりでふわっと広がる「ジゴ袖」と大きく開いた肩とデコルテでできるだけなで肩に見せ、ウエストはこれでもかと絞って胸を強調、さらにふわっと広がるスカートでXみたいなシルエットにするのが流行だった。
 ヴィクトリアンドレスはスカートをより広げるために、鳥かごのような骨組みを中に仕込んだクリノリンスタイルを採用。動きづら過ぎてよく風刺画にされた。

 髪型は、その豪華なドレスに負けないように結い上げ、ドレスの装飾と合う髪飾りで飾る。
 サイドの巻き髪もよく見る。セシルさんやファニー姉さんの肖像画はよくサイドが立巻きロールになっている。

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画像:Wikimedia Commons
 1846年ごろのセシルさん。29歳。

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画像:Wikimedia Commons
 1842年頃のファニーさん。37歳。

 帽子、ボンネットも流行した時代だ。シャンプーのCMみたいに結わずに背中になびかせておくことはまずなかった。しかもそのまま外を出歩くなんて!
 当時の風俗からしても風変りだったことに加えて、メンデルスゾーンは音楽の作風だけでなく、女性観もちょっと古風だったきらいがある。才能よりも明るさ・愛嬌のあるセシルさんが好みだったし、姉が当時の女性観を乗り越えてプロの女性音楽家として活躍したいと相談した時も難色を示していた。
「君なら見たがるのかもね」と添えたのは、ヒラーの性癖を揶揄っているのか、それとも冗談なのか判別がつかない。ちなみにヒラーはパリ時代に、フランツ・リストと並ぶくらい浮名を流していたという資料もある。

 ハーグ滞在時、メンデルスゾーンの唯一の癒しだったという某氏、全然誰だか分からなかった。「フォン(Herr von)」がついているので、貴族出身の誰かなのかとも思われるが、正直この文面だと、しかつめらしい名前を付けられたワンちゃんのことだとしても驚かない。
「明日にでも海の水をすっかり抜いてしまえるような顔」がどんな表情なのか気になる。ワンちゃんでも人間でも、何を考えてるかよく分からない顔ってあるよね。
 それにしても、親しい相手との往復書簡を後世の人間が翻訳することの難しさを、毎回毎回ひしひしと思い知らされる。冗談なのか本気なのか、あだ名なのか本名なのか、当時誰でも知ってる話なのかただの内輪ネタなのか、そしてイニシャルトークの絶望感……(笑)

 前回S氏親子にさんざん悩まされたメンデルスゾーン、とうとうS氏の息子の専属お世話係みたいになってしまったとのこと。
「コルネリウス・ネポス」は共和制ローマ時代の歴史家。彼の著作は当時、初心者向けのラテン語教材として使われていたらしい。分かりやすい文章で書かれていてラテン語の学習にはとてもよいのだが、肝心の歴史書としてはちょっと情報が少なくてあまり有用ではないそう。トホホな感じだ。
 しかしラテン語を勉強しているということは、やはりそこそこいいとこのお坊ちゃんなのだな、Sジュニア。
 かいがいしくお世話や勉強を見てあげたあとに、水が怖いS氏の息子を水に入れたというから、「大丈夫だよ~ぜーんぜん怖くないよ~」と笑顔でやさしく話しかけながらも、小生意気な小僧が泣きわめくのを見てちょっと晴れ晴れとした気持ちになるメンデルスゾーンを想像してしまう。Sジュニアはさぞや裏切られた気分だったろう。このおじさ……お兄さん、ほんとは怖い人だ!
 S本人も水が(あるいは海が)怖いようで、親子そろって泣きわめいていたというから、ざまあみろ、というモノローグを背負ったメンデルスゾーンのさわやかな笑顔を思い浮かべてしまう。

 前回は、手紙の返事はやっつけで書かずに様々なことを8ページ以上は書いてよね! とヒラーにお願いしたメンデルスゾーンだが、手紙の中盤で早くもそれを撤回して、やっぱりとにかく早く書いてくれと懇願している。相当参っているようだ。
 まるで走馬灯のようにフランクフルトの思い出をめぐらせ、最近会えなくてさみしい、とさらに泣き言を重ねている。
 ここの「そんなことないよね」の部分、実は底本には「216ページを参照のこと」という注釈がついている。本も終わりに近いそのページへ飛ぶと、ヒラーが晩年のメンデルスゾーンと仲違いしたエピソードが語られる。恥ずかしながらまだ筆者の翻訳がそこまで進んでいないので、今回は注釈そのものを外させていただいた。
「この人とはいつか喧嘩するだろうな」と思いながら友達付き合いをするような人は稀だと思う。少なくとも1836年時点では、メンデルスゾーンもヒラーも、仲違いするなんて思っていなかったはずだ。
 その喧嘩の理由も(おそらく)語られると思うので、早く翻訳が進むよう頑張りたい。

 メンデルスゾーンお気に入りの「ライプツィヒ序曲」についても、どの曲を指すのか分からなかった。文脈からするとヒラーの作品か編曲作品なのかな? と思えるのだが、ヒラーの作品は不詳なものも多く、特定できなかった。
 メンデルスゾーンがフランクフルトに滞在した時点でおおむね完成していたような書かれ方をしているが、実際に完成までこぎつけられたのかどうかも分からない。
 これより後に、ヒラーの序曲は2作品が話題に上る。そのどちらかなのかもしれないが……情報求ム。

 メンデルスゾーンのピアノピースについても、どの曲にあたるのか不明。
 これからしばらく、メンデルスゾーンは手紙を書くたびに「僕のピアノピースはいつ出版されるんだろう?」と言い続けてるので何か事情か問題があって、出版が遅れた楽譜なのかもしれない。調査を続けたい。
 音楽のことは(セシルのことで頭が働かないので)ここではあまり進まなかったが、絵はよく描けたとのこと。
 メンデルスゾーンがこのハーグ滞在時に描いたらしい水彩画がこちら。

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画像:Wikimedia Commons
 相変わらずうまい。才能があふれ出ている。

 スヘフェニンゲンでのメンデルスゾーンについて、オランダでオーディオブックが作られていたらしく、その作者のインタビュー新聞記事を見つけた。
 当時のスヘフェニンゲンの様子を描いたリソグラフ画などもあった。オランダ語が分かる方はぜひ読んでみてください。
 Hoe vermaakte Mendelssohn zich in Scheveningen? -Trouw(2018.6.6)

 チェチーリア協会は、病に倒れたシェルブルさんの代わりにメンデルスゾーンが少しの間外部指導をしたが、メンデルスゾーンがフランクフルトを離れたあとは、ヒラーが指導を引き継いでいる。
 まだ数週間しかたっていないのに、まるで数年も離れているような言い方になっているのが微笑ましい。どんだけフランクフルトに戻りたいんだ。
 怒涛のイニシャルトーク、X、H、M夫人、ダルムシュタットの婦人……本当に何も分からない。泣きたい。みんなフランクフルトの人々なのだろうとは思うが……いっそ専門家に調査を任せてしまいたい。 イニシャルトークの中でただひとり正体に心当たりがあるマドモワゼルJ、セシル・ジャンルノーのJだろう、きっと。……と、思ったのだけど。
 セシルの出身地、リヨンなんだよなあ……!
 また別のマドモワゼルJなのか、メンデルスゾーンがセシルの出身地を勘違いしていたのか、それともセシルはトゥーロンにいたこともあるのか???
 もし勘違いだったとしたら、好きな女の子にわざわざ人伝てで伝えてもらう内容としてはだいぶ残念になってしまうが。
 今回不明点が多すぎて、「解説と言う名の蛇足」がいつにも増して蛇足になってしまい申し訳ないです……。

 今回のこの手紙に、願望の仮定法過去が何回出てきたかカウントしてみたら、4回あった。
 I wish I wereを連発するほど戻りたかったフランクフルトへ戻る予定日を知らせて、最後におまけに4回目の仮定法過去を添えている。
 そしてコミカルで若干物騒な一文のあとに、再三にわたる返事の催促で手紙は終わる。
 メンデルスゾーンも自分の書いたこの手紙がちょっと恥ずかしい文面だということは自覚があったらしい。絶対に誰にも見せないでね! というお願いが、物騒な一文に現れたわけだ。
 ヒラーは写真や絵画を見る限りどちらかというとポッチャリ……というか丸々としているので、こんがり焼いたら確かに美味しそうかも、とちょっと思ってしまった。
 そういえばショパンがアーヘンへヒラーと一緒に旅行に行った時、パリへ残ったヒラー母へ宛てて書いた手紙(1834年5月22日付)にも、「フェルディナントはとても元気で食べたら美味しそうです」というようなフレーズがあった。
 ショパン国立研究所のショパンの書簡ページ(ポーランド語/ドイツ語)
 ヒラーの友人たちの間で、「ヒラーは美味しそう」という内輪ネタがあったとしたら、メンデルスゾーンのこの文面にも別の側面が見えてくる気がする。

 ヒラーはこの手紙をしまったり焼いたりするどころか、あろうことか本にして出版してしまったわけだ。
 が、こんなに恋焦がれたセシルさんとは後に結婚したのだし、今となってはそんなに怒られないはず、と開き直っている。
 天国で待ち構えていたメンデルスゾーンに、ローストされていないか心配である。


次回予告のようなもの

 1836年8月7日の手紙は以上で終了。次回は同年8月18日付の手紙を紹介する。メンデルスゾーンはまだ愛しのフランクフルトへは戻れておらず、発信地は引き続きハーグだ。
 どうやらヒラーはこの畳みかけるような返事の催促に屈し、すぐに返事を書き送ったらしい。それに対してまた返事を書く形で、メンデルスゾーンが手紙を送ったようだ。
 ヒラーが送った返事には、ヒラーが遭遇したある災難についても書かれていたが、メンデルスゾーンの方でも、それに似た災難に遭っていた。

 次回、第4章-8.奇妙なシンクロ の巻。

 来週もまた読んでくれよな!

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