「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 54
第5章-14.ライプツィヒ、1838年:『聖パウロ』ドレスデン初演の愚痴
もっといい話題に変えましょう。君の詩篇の楽譜コピーを送ってはいただけませんでしょうか? もし他に新しい作品があればそれも一緒にして、小包まるごと、こちらのW・ヘルテル宛てによく荷物を送っているリコルディに渡してくれませんか?
君のためにもなるはずです、だから何度でも何度でも、君に拝み倒します。
僕もこの冬は、わりと忙しかったです。ダヴィッドが僕の新しい弦楽四重奏曲変ホ長調を演奏し、後日彼のソワレの最後に公開演奏もしました。君もこれには進歩を感じてくれると思います。長三度から始めました。
ピアノとオーケストラのための演奏会用の曲(一種のセレナーデとロンド(※)、もちろん君のは僕のところに全然来ない)、新しい詩篇(第95篇)も完成しました。
詩篇第42篇に4曲追加したことは確かもう書きましたよね。それから野外公演のための四部合唱組曲、あと他に、君が見たらつまみ上げてささっとブラッシングしたいと思うような、雑多で短いやつらがちらほら。
話は変わって、ウケる話をきいてくれませんか?
僕の『聖パウロ』ドレスデン初演のため、彼らはあらゆる種類の素晴らしい準備を進めてきたのですが、十日前にRがかしこまった手紙で、第1楽章を少し短くしたいと言ってきました。彼は『目覚めよ!光明となれ!』のコーラスと『眠りし者は目覚め』のコラールをカットしたいらしい。彼にとってこれらは演奏しなくてもいい曲に見えたようです。
僕は愚かにも、この言葉のおこがましさについて考えてまるまる一日無駄にしてしまったけど、君だって笑わせんなよって思いますよね。
クララ・ノヴェロはもう間もなくイタリアに着くでしょう。ミュンヘンからそちらへ直行すると聞きました。
僕らのところからベルリンへ行き、そこでもあり得ないほどの成功を収めて……ただそれが彼女を少し自信過剰にさせてしまったのかもしれません。その直後に行ったドレスデンとウィーンでは、大した評判が上がらなかったようなので。
一方ベルリンでは、彼女はコンサートを二回開催し、貧民チャリティのために二回、劇場で四回、宮廷で二回歌いました。僕は知りませんがそれ以外の場所でも歌ったのかも? 彼女が君の腕に飛び込んできたら、細心の注意を払ってあげてください。
他にも伝えたいことはたくさんあるのですが、もう終わりにしないと。残りは次の手紙で。妻が君によろしくと言っています。彼女は旅支度で大忙しです。
僕への手紙はベルリン(ライプツィヒ通り三番地)に送ってください。君のミラノのニュースとベルリンのニュースを等価交換しましょう(僕の方がだいぶ多くのネタを放出しなきゃいけないでしょうけど)。
それじゃあさようなら、親愛なるフェルディナント。君にいいことがありますように。
いつも君のことが大好きな F.M.
※注:ピアノとオーケストラのためのセレナーデとアレグロジョイオーソ(op.43)。
解説と言う名の蛇足(読まなくていいやつ)
最近、記事の更新が不定期になってしまいがちで申し訳ない。とはいえ「もうしない」とも言えない状況なので、これからもこんな感じでのんびりやっていきたいと思います。よかったらお付き合いいただけると幸い。
今回は、前回・前々回に引き続き1838年4月14日付の手紙の紹介。手紙の後半~最後までを紹介する。
前回は、イタリア楽壇推しのヒラーに対し、ドイツ楽壇推しのメンデルスゾーンが熱く持論展開する部分だった。ただ、推しとはいえ欠点・短所もよくよく分かっているメンデルスゾーンなので、つい推しの愚痴になってしまっていた。
しかしヒラーへの手紙の中で愚痴愚痴言っても仕方ない。ちょっと嘆息でもして話題を転換する。
「もっといい話題」とは言うが、これもちょっとした愚痴に思える。「友達がなかなか約束した楽譜を送ってくれないんだよねえ~(チラッチラッ」という。だがこの愚痴は前者と違って、ヒラーの手紙の中で言ってこそ効果があるというもの(笑)
ヒラーは早くメンデルスゾーンに楽譜送ってあげてよ。ここ最近の手紙、毎回楽譜の催促が含まれているのではないか?
ヒラーの詩篇については、以前の記事で紹介した。1月の手紙で触れていた曲なので、メンデルスゾーンはかれこれ半年間も「ヒラーの詩篇、どんな曲なんだろうワクワク」とお預けを食っているわけなのだろうか。……別の詩篇の話であってほしいと願う反面、今までの所業から察するに多分まだ送ってないんだろうなとも思ってしまう。
他にも新しい作品があれば一緒に送ってほしい、と付け加えたあと、ヒラー自身が発送手続きをするのが大変なら、ミラノのリコルディがライプツィヒのヘルテル宛てによく荷物を送っているからそこに同梱してくれ、という提案だ。
メンデルスゾーン、なかなか必死だ。それくらいヒラーからの楽譜を待ちわびているのだろう。
続いて、メンデルスゾーンがこの冬に初演した曲や、作った曲についての記述。
ライプツィヒ時代の弦楽曲、ことヴァイオリンが参加する曲は、メンデルスゾーンの友人のフェルディナント・ダヴィッドが初演を行うことが多かった。また、彼の技巧レベルに合わせた難曲が多いのも特徴らしい。
メンデルスゾーン自身もヴァイオリンが上手だったという記録はあるが、さすがに本職の、しかも同時代人の中でも名手と呼ばれる奏者には負けるはずだ。
初演された弦楽四重奏曲変ホ長調は、第5番にあたる。1月の手紙の中で「ほぼ書き上げた」と書いていた曲、op.44-3だ。
他にもop.43のセレナードとアレグロ・ジョイオーソ(ロ短調)、op.46の詩篇第95『来たりて主を拝みひざまずかん』が完成したとのこと。「野外公演のための4部合唱組曲」は、op.41の『6つの歌曲』のことかと思われる。
他の雑多な「やつら」は、底本では「little creatures」と書かれていたので、「brush」という単語に「磨き上げる」と「ブラシをかける」のダブルミーニングを込めて訳してみた。子犬みたいな感覚で想像するとかわいい。
さて、さらに話題は変わるが、ここの「話は変わって」はドイツ語の原著でも「A propos」という英語表記だった。なぜかフォントまで、ひげ文字(フラクトゥール)じゃなくなっていて正直読みやすかった。
ここらへんはちょっと訳すのが難しくて、若干の意訳にさせていただいた。「ウケる話」という訳語を選んだが、皮肉と嫌味を感じてもらえたら幸い。ここから始まるのは、この手紙の中で最大級に恨みのこもった愚痴だ(笑)。
1838年7月のこの時点で、メンデルスゾーンが一番思い入れのある自作は間違いなく『聖パウロ』だろう。この時点ですでに、ドイツ国内だけでなく英語版がイギリスや遠く新大陸のアメリカでまで演奏されているほどの大人気曲だ。
ドレスデンでの初演に向け、当地の音楽監督や演奏家たちが準備を進めてくれていたようだが、まさかの直前になってひどい手紙が届いた。第1楽章を省略版で演奏したいと言ってきたのだ!
メンデルスゾーンは激おこぷんぷん丸、まる一日イライラビキビキしてしまったそうだ。
さすがにこれはヒラーも同情して一緒に怒って……いやもしかしたら、メンデルスゾーン以上に怒ってくれるかもしれない。
『目覚めよ!光明となれ!』の部分は初演を聞いたヒラーも大のお気に入りで、第一楽章はメンデルスゾーンの作品中でも最高の出来と絶賛しているからだ。参考:以前の記事(1836年聖パウロ初演の思い出)
メンデルスゾーンの怒りを一身に買った、アカン手紙を送ってきてしまったR氏だが、日版Wikipediaのシュターツカペレ・ドレスデン(ドレスデン国立管弦楽団)のページにも歴代楽長の一覧があった。ありがたい。
それによると、この時の楽長はカール・ゴットリープ・ライシガーだ。……おっ、Rだな? この人だろうか。
★カール・ゴットリープ・ライシガー(Karl Reißiger, 1798-1859)
ドイツの音楽監督、作曲家。
ライプツィヒ、ウィーンで音楽を学んだ後、プロイセンの奨学金を得てイタリア、フランスへも留学。シヒト、ヴィンター、サリエリらに師事。
ドレスデンのオペラ劇場監督として務めたのち、ウェーバーの後任として1828年からドレスデンの宮廷楽長に就任。ドレスデンではヨアヒム・ラフらと親交を持った。
作品はオペラ、オラトリオ、ミサ曲など、声楽曲が中心。管弦楽曲や室内楽曲もあったが、死後急速に忘れ去られた。
1842年に「リエンツィ」(ワーグナー)を初演。著名な弟子にヘルマン・ベーレンスがいる。
すでにここ数回の手紙への登場回数でレギュラーメンバー入りしているノヴェロ嬢。「ようやく君の所へ着くみたいだよ♪」と、やはりからかい口調に思えるメンデルスゾーンの筆だ。
家族でコンサートのために欧州各地を回っているノヴェロ嬢は、ライプツィヒ、ベルリンと成功を収めたが、続くドレスデンとウィーンではそこそこだった模様。ミュンヘンからイタリアへ行くようだが、ミュンヘンではどうだったんだろうか。
ノヴェロ嬢はイタリアでヒラーの腕の中に飛び込むことが決まっているらしい(笑)。ヒラーにとっては元教え子でもあるし、親愛のハグだとは思うが、ここまでの手紙の内容を見ていると、それ以上のものを指してからかう、小学生的な囃し立てに思えてしまうのは筆者だけだろうか?
もっと書きたいけど、と書きながら手紙は収束へ向かう。これからベルリンの実家へ向かうメンデルスゾーン、次の手紙はベルリンに送ってねと書いている。
奥さんのセシルさんは、これから(結婚したときあまり良く思われてなかった)義実家に、生まれたばかりの乳飲み子を連れて乗り込むわけで、そりゃー準備に大わらわにもなるだろう。こんな手紙書いてて大丈夫? 怒られない? それとも怒られたからここまでで手紙やめたの?? などと勘ぐってしまう。
今更だが、後半生をライプツィヒで過ごしたメンデルスゾーンの実家の住所が「ライプツィヒ通り(Leipziger Straße)」なの、不思議な偶然だなあ。
画像:Wikimedia commons
ベルリン・ライプツィヒ通り3番地の、メンデルスゾーン邸。1900年頃の写真らしい。
画像:Wikimedia commons
こちらは同じく、ガーデンハウスとのこと。夏はここで日曜演奏会を開いたりしたのかなあ。
メンデルスゾーンにとってミラノのニュースとベルリンのニュースでは、ミラノのニュースの方が価値が高いらしい。3:1くらいかな、それとも5:1? 10:1? ベルリンにあまりいい思い出のないメンデルスゾーンの、一抹の不安や憂いが一瞬垣間見えたような気もする。
ところでメンデルスゾーンさん、「残りは次の手紙で」とのことだけど次の手紙はいったいいつになったのかな……?
次回予告のようなもの
前回に引き続き1838年4月14日付の手紙を紹介した。この手紙は今回で終わり、次回からは3か月後の1838年7月15日付の手紙を紹介していく。
3か月!「残りは次の手紙で」なんてすぐに次の手紙を書くようなこと言っておきながら、3か月空いてますよ!(笑)
今までにも何度か、手紙無沙汰になってしまったことを詫びたり、逆ギレ(!)したりする言い回しはあったが、次回の言い訳もなかなか面白いので乞うご期待。
そしてまだまだ届かないヒラーの序曲の話などなど(笑)。
次回、第5章-16.筆不精な文通相手 の巻。
次もまた読んでくれよな!