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「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 15

第2章-8.パリ、1831~32年:レオンティーヌ・フェイ


 夜はよく劇場へ――特にジムナーズ座へ行くことが多かった。当時の上演作はスクリーブ作品でほとんど独占されており、チャーミングな女優レオンティーヌ・フェイが私たちの贔屓だった。
 彼女はスクリーブの作品に出演し、怪しげなシチュエーションで多くのヒロイン役を演じた。その演技は劇に優雅さと情緒を呼び込んだ。
 彼女は細身でブルネットの髪、見事な深い色の瞳を持ち、しぐさは得も言われぬ端麗さ、そして心に直接響く声をしていた。

 かの有名なタリオーニもまた、その名を世に知られるようになったばかりだったが、私達のお気に入りの一人だった。
 彼女ほど無言劇とダンスに詩情を感じさせてくれる逸材は、他にいない。「シルフィード」で彼女が見せた演技は、想像を絶する美しさと輝かしさだった。
 ベルネがどこかで彼女についてこう書いていた。
「彼女が自身のまわりをひらひらと舞うと、すぐに蝶や花に姿を変える」
 だがこのかわいらしいイメージすら、彼女の魅力のほんの一部を伝えているにすぎない。

 私はこの少し前にピアノ協奏曲を作曲し、公開演奏をしたが、最後の楽章は気に入らなかった。メンデルスゾーンがいるこの冬の間に再演しなければと考え、最終楽章を書き直すことにした――レオンティーヌ・フェイのイメージを密かに盛り込んで。
 改稿を始めたはいいが、次のコンサートがだいぶ早い日程に決まってしまい、メンデルスゾーンはそれまでに改稿を間に合わせることはできないんじゃないか、と私に言った。
 もちろん私はそれを否定したので、晩餐を賭けることになった。

 友人とのこの意見の対立によって、私は自分の能力を実際に試すことに奮い立った。ソロパートのメモも残さずに、一気にオーケストラの全楽器の総譜を書き上げたのだ。
 写譜家も全力を尽くしてくれた。その結果、私は予定通りに協奏曲の新しいフィナーレの演奏を成し遂げたのだ。
 フェリックスは晩餐の代金を持ち、ハンサムで賢い愉快な仲間・ハープ奏者のラバールも招待し同席した。
 レオンティーヌ・フェイのイメージがどれだけ成功したかは、作品そのもので評価してほしいものだが、参考までに挙げるとフェリックスはまあ彼女に似てなくもないよと言っていた。


解説という名の蛇足(読まなくていいやつ)

 前回のスイーツ男子はなんだかとっても好評だったようで、ハートたくさんいただいて嬉しかったです。19世紀のスイーツ男子たちのおかげでしょうか。
 さて今回は、そんなスイーツ男子たちが(お菓子屋の次に)よく行く劇場の回です。

 当時のパリには劇場がめちゃんこ多かったことについては、以前の記事でも触れた。その中でも、メンデルスゾーンとヒラーがよく通った劇場は、「ジムナーズ座」だったらしい。

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 画像は、ジムナーズ座のあった通りのパノラマ絵画(の一部)。1846年ごろに描かれた。
(この絵の完全図は当時のパリに興味のある人は眺めているだけで楽しいと思うので、こちら(Wikimedia Commons)から見てみてください)

 当時のジムナーズ座では、超大人気劇作家のスクリーブさんを専属作家として雇っており、役者も人気者ぞろい。
 ジムナーズ座は名前を変えて現代まで続いている劇場なので、1830年代が舞台の「赤と黒」(スタンダール)、1900年代が舞台の「怪盗ルパンシリーズ」(モーリス・ルブラン)、1930年代あたりが舞台の「メグレ警視シリーズ」(ジョルジュ・シムノン)などの小説にも登場する、パリでは有名な劇場だ。
 1830年代当時は、スクリーブや、同じく人気劇作家のバヤール(Jean-François Bayard,1796-1853)などの作品が上演されていた。

 二人のお気に入りだったというレオンティーヌ・フェイは、子役時代からジムナーズ座で活躍していた人気女優だ。

 ★レオンティーヌ・フェイ(Léontine Fay, 1810-1876)
 フランスの舞台女優。ジムナーズ座、フランス座で活躍。両親とも歌手であり、マルセイユで劇場を経営していた。
 10歳にして、スクリーブ作品「La Petite Sœur(小さな妹)」で舞台デビュー。以後10年以上にわたり、ジムナーズ座の看板女優を務める。
 彼女が歌った劇中歌「J'aime la galette」(ガレットだいすき)は大流行し、現在までフランス童謡として歌い継がれている。

 ジムナーズ座では1831年の12月から、スクリーブとバヤールの合作台本で、フェイさんがヒロインの新作演劇「Le Luthier de Lisbonne(リスボンの弦楽器職人)」が上演されていたようだ。メンデルスゾーンとヒラーもこれを見たかもしれない。
 劇台本がガリカで読めるので、フランス語が読める方はぜひ。
「怪しげなシチュエーション」ってどういうことかなあと思ったが、スクリーブさんは「史実をもとにしたフィクション」が得意な作家で、誰もが知っている歴史的なできごとにガンガンフィクションぶっこんでいくタイプだったようなので、その辺のことを言ってるのかな? と推測した。
 スクリーブさん、源義経=チンギス・ハーン説とか、戦国自衛隊とか好きそう(偏見)。

 マリー・タリオーニは、当時欧州各国で人気のバレリーナ。1827からパリで活動していた。
 あまり美人ではなかったらしいが、その実力は伝説級だ。

 ★マリー・タリオーニ(Marie Taglioni, 1804-1884)
 スウェーデン出身、欧州各国で活躍したバレエダンサー。
 「悪魔のロベール」のバレエパートで一躍有名になり、父が振付・プロデュースを担当した「ラ・シルフィード」で大当たり。以降ラ・シルフィード(風の精)はタリオーニの二つ名となった。
 チュールを重ねた膝丈のチュチュ「ロマンティック・チュチュ」を初めて舞台衣装として身に着けたのも、バレエではすっかりおなじみのつま先立ち「ポワントゥ」を初めて舞台で披露したのも、みんなこの人。
 父親をはじめ、男運がない気がする。

 可愛い系のフェイと、ミステリアス系のタリオーニの二人をごひいきにしていたメンデルスゾーンとヒラー。ここから二人の好みがわかる……かもしれない。
 後にメンデルスゾーンの妻となるセシルさんも、愛らしい系だったようだから、メンデルスゾーンはあんまりセクシー系は好みじゃなかったのかも?
 ちなみにヒラーの妻になるアントルカさんは綺麗系だったようだ。ヒラーはパリ時代けっこう浮名を流していたので、ストライクゾーンも広いのかもしれない。

 下世話な話はさておき。
 タリオーニさんのダンスは、現在のバレエの祖とも言える、当時最先端のものだった。跳躍をメインにし、つま先立ちで踊るその様子は、まさに妖精、精霊にぴったりだ。
 ポワントゥでのダンスを初めて踊ったということで、ペール・ラシェーズ墓地にあるタリオーニさんのお墓には、バレリーナの卵たちがトゥ・シューズをお供えするらしい。

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画像:Wikimedia Commons

 モンマルトル墓地のマリー・タリオーニのお母さんのお墓が、マリー・タリオーニのお墓と勘違いされているらしく、そちらの方が花やトゥ・シューズ山積みになっているのはなんだか……うーん……薄幸エピソードの多い人だ……。

 彼女がひらひらと舞う姿は蝶や花のよう、と例えたのは、ドイツ出身の作家・ベルネさん。

★ルートヴィヒ・ベルネ(Karl Ludwig Börne, 1786-1837)
 旧名レープ・バルーフ。ドイツ系ユダヤ人の作家、文芸評論家。実家はフランクフルトで銀行業を営んでいた。
 ドイツの若手文学者サークル「青年ドイツ派」のメインメンバーのひとり。1818年に改宗し、同時に改名。
 1830年以降パリに住み、七月革命期のパリの実録を出版した。

 ユダヤ系の人々に銀行家が多いのは、キリスト教では利子を取る職業(労働を伴わずに儲けを出すこと)が嫌われていて、同じく嫌われ者であり、ユダヤ教の教義で異教徒からは利子を取ってOKだったユダヤ教徒に金貸し業をさせていたから、と聞くが、本当に多いな銀行家。
 その辺は詳しく調べ始めると時間が溶けるので、詳細は触れないが、歴史の妙を感じる。
 ベルネさんはフランクフルト出身ということで、もしかしたらヒラー(の実家)とは交流などがあったかもしれない。

 少し前にヒラーが作ったというピアノ協奏曲は、第1番(op.5)のことだと思われる。
 初演は1831年2月説と12月説がある。パリ・コンセルヴァトワールで演奏された。
 この時気に入らなかった最終楽章を改訂する際に、ヒラーはこっそりレオンティーヌ・フェイのイメージを盛り込んだらしい。
 しかも、再演日が思ったより早い日になってしまって、メンデルスゾーンに「改訂、コンサートまでに間に合わないんじゃない?」と言われ、ヒラーは反発。
 ここに、晩餐代を賭けた戦いが始まった……!

 ヒラーは尊敬する友人メンデルスゾーンに「間に合わないんじゃない?」と言われて、燃えに燃えた。
 自分の限界に挑戦するいきおいで、(レオンティーヌ・フェイのイメージを盛り込んだ)改訂をこなし、写譜を頼み、もちろんピアノは自分が弾くのだから稽古をし、そして見事コンサートを成功させた。
 賭けはヒラーの大勝利だ。負けたメンデルスゾーンは約束通りヒラーと、なぜかハープのヴィルトゥオーゾ・ラバールさんの分も、晩餐をおごった。
 メンデルスゾーン自身も、賭けには負けたが仲間のヒラーの奮闘と成功は嬉しかっただろう。快く豪華なディナーをごちそうしたに違いない。

 ★テオドール・ラバール(Théodore François Joseph Labarre, 1805-1870)
 フランスの作曲家、編曲家、音楽教育家、ハープ奏者。1823年にローマ賞(2位)、1862年にレジオンドヌール勲章。
 主にフランスとイギリスで活躍。パリのオペラ・コミック座の指揮者も務めた。
 1867年からは音楽院でハープを教えた。弟子にゴドフロワなどがいる。 
 ハープ曲の他、オペラ、バレエ、ピアノ曲等を作曲。ハープ奏法のメソッド本も出版している。

 ラバールさんはイングランドやアイルランドでコンサートツアーをしているので、メンデルスゾーンとはパリ以前から知り合いだった可能性が高い。

 そして肝心の、ヒラーが協奏曲のフィナーレに仕込んだフェイさんのイメージについては、メンデルスゾーンはあいまいな評価を下している。
 ヒラーの協奏曲第1番は演奏機会は少ないが、現代でもいくつか録音のある曲だ。だがフェイさんのいない現代に生きる我々には、最終楽章を聴くことはできても、フェイさんのイメージについて評価することは残念ながらできないのだった。
 曲はかっこいいと思うんですけどね!


次回予告のようなもの

 メンデルスゾーンのパリ滞在は短く、半年に満たないものだった。
 その割には、パリ編はそれなりの分量があった。人物紹介も大変だった。それはやはり、当時のパリにどれだけ多くの音楽家が集まっていたか、という証明でもあると思う。
 そんなパリ編も、次回で最後!

 第2章-9、モーツァルト、そしてパリよさらば の巻。

 モーツァルト作品の中で、メンデルスゾーンのいちばんのお気に入りはいったいどの曲?
 メンデルスゾーンはパリの街を気に入ったのか!?

 よかったら来週も、暇つぶしに読みに来てね!

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