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「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 3
第1章-2.フランクフルト、1825年:フェリックスの即興演奏
かくしてメンデルスゾーンとの縁を持ったので、ベルリンからフランクフルトにやってくる芸術家達が彼のニュースを聞かせてくれるのを常に待ち望んでいたし、彼らもメンデルスゾーンへの賛美を謳い飽きることはなかった。
しかし、私が完全で永続的な感動を彼の能力に感じたのは、それから数年後のことになる。
その頃、チェチーリア協会は、シェルブルの優れた指導の下、活発な活動をしていた。
1825年の春、休暇旅行中にフランクフルトに立ち寄り演奏を依頼されたメンデルスゾーンが、練習の集まりにひょっこり顔を出した。
私達は「ユダス・マカベウス」の合唱を歌っていた。
彼は主要なメロディーのいくつか、特に「見よ、勇者は帰る」を取りあげ、それらについて即興を始めた。
どれが最も素晴らしかったのかは分からない――巧みな対比、思考の流れと連続性か、あるいは情熱、表現、そして彼独自の奏法の並外れた出来栄えか。
当時の彼は、ヘンデルの研究に没頭していたに違いない。彼の姿は完全にヘンデリアンのそれだった。3度、6度、そしてオクターブのパッセージで彼が見せた勢いと明快さは本当に壮大で、しかもすべてが主題を損なうことなく気取らない、どこまでも本物で、純粋な、生きている音楽だった。
私はすっかり心を奪われた。その後も何度となく彼の素晴らしい演奏を耳にしたが、彼がほんの16歳の少年だったあの時ほどの圧倒的な作用は訪れなかったように思う。
翌日、まだ昨日聴いた音で頭がいっぱいだったが、シュミット氏に師事する仲間に会った。二十歳前後の、ずいぶん前に鬼籍に入った兄弟弟子だ。
私たちはメンデルスゾーンについて語り合い、そして彼が私に尋ねる。
「私が彼と同じことができるようになるまで、どれくらい時間がかかると思う?」
私は笑った。
彼はあと2年も一生懸命勉強すれば、そうなれると思っていたらしい。
天賦の才を練習で得られると思っている馬鹿に出会ったのはこれが初めてで、そしてこれが最後ではなかった。
以下、解説という名の蛇足(読まなくていいやつ)
前回(「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる!2)は本文の初回ということもあり解説が長くなってしまったが、今回はサクサク行こうと思う。行けるはずだ。行けますように。
フランクフルトへは短期の滞在(それでも数か月はいたと思うが)だったメンデルスゾーン一家、当時の住まいはベルリンだった。
ライプツィガーシュトラーセ3番地、現在はなんと連邦参議院になっている。最初それを知った時には、えっそんなことってある…? とにわかに信じられなかった。
Googleストリートビューの画像だが、ここが連邦参議院の……右翼部分というのだろうか、とにかく正面から見て右側。
この門の部分に、メンデルスゾーンがここに住んでいたよ! という旨のプレートが設置してある。
この邸宅で、メンデルスゾーン家は音楽家だけでなく文学者・科学者・哲学者・画家・経営者などなどなどあらゆる分野の知識人を集め、交流サロンを開いていた。
メンデルスゾーンはなにか曲を作るとこのサロンで初演をして、次いで公開演奏をするというスタイルで自作曲を発表していたようだ。恵まれた創作環境だと思う。そこは異論ない。
ということで、フランクフルトに暮らすヒラー少年は、遠くベルリンの友を思い、ベルリンから来たという音楽家を片っ端から捕まえては、ねえねえメンデルスゾーンはどうしてる!? と聞いて回っていたのだろう。かわいいね。
またもや「皆さんご存じ!」というノリでチェチーリア協会という単語が出てきたので、調べた。
○『チェチーリア協会』(Cäcilien-verein)
1818年にシェルブルがフランクフルトに創立した楽友協会。
主にオラトリオ・教会音楽を演奏する合唱団として現在も存続(フランクフルト・チェチーリア合唱団)しており、2018年には200周年を迎えた。
1829年、メンデルスゾーンがマタイ受難曲をベルリンで蘇演した数週間後、チェチーリア協会でも同曲を蘇演。その後もバッハ作品を数多く取り上げ、忘れられかけていたバッハの知名度を押し上げた。
メンデルスゾーンのオラトリオ「聖パウロ」はこの合唱団のために書かれた作品。
ちなみに聖チェチーリア(セシリア)は音楽家と盲人の守護聖人なので、わりと世界各地に聖セシリアの名を冠した音楽組織がある。
メンデルスゾーンがこの合唱団を指揮した時期もあるのだが、今はまだその時ではない。この時は創立者のシェルブルさんが、熱血指導をしていた。
★ヨハン・ネポムク・シェルブル(Johann Nepomuk Schelble, 1789-1837)
ドイツの歌手、作曲家、指揮者、音楽教育家。チェチーリア協会の創立者。バッハ作品演奏のパイオニア。
歌手でありピアニストであり作曲家であり指揮者であり音楽教育家という何足ものわらじを履きこなした傑物。シュトゥットガルト、ウィーン、ブラチスラバ、ベルリン、フランクフルト等で活躍した。
メンデルスゾーンをして「何人分もの仕事をこなしている」と言わしめた。お前が言う? 感がすごい。
シェルブルさんに声を掛けられ、練習にちょっと顔を出したメンデルスゾーンは、その時協会メンバーが練習していたヘンデルのオラトリオ「ユダス・マカベウス」から即興演奏を披露してみせた。
「見よ、勇者は帰る」は現在もよく表彰式で耳にする有名なメロディだ。実際はオラトリオの一部らしい。知らなかった。
この時のメンデルスゾーンの即興演奏は、ヒラー少年の心に深く刻まれ、おじいちゃんになっても「あの時の演奏は最高だった……」と回想するような素晴らしいものだったらしい。
次の日になってもその音は耳を離れず、半ば放心したまま同門の仲間に会いにいってメンデルスゾーンのすごさについて語り合う。
推しのライブの翌日にオタ仲間で集まって感想を語り合うみたいな感じで、親近感がわかないでもない。
同門の仲間で20歳前後の若者とはいえ、ヒラーはこの時14歳なわけで、年齢でいうと大学生と中学生くらい。相手はだいぶオニイサンだ。
その相手が、「メンデルスゾーンはすごいね。どれくらい頑張ったら僕もあれくらいになれるかな?」と言い出したとしたら。
自分だったら「えっ……ああ、そうですね……どうですかね?」とか言葉を濁してしまいそうだが、ヒラーは違った。彼はそれを聞いて、笑ったらしい。
嘲笑か爆笑かでもまたちょっと感じが変わる気がするが、とにかくその夢見がちな質問を笑い飛ばした挙句、バカ呼ばわりである。草葉の陰で泣いてるぞきっと。いやもしかしたら、それくらい親しい間柄だったのかもしれないけど、と一応フォローもしておこう。
この兄弟弟子が誰なのかは特定できなかったが、むしろ特定しないでおいてあげたほうが親切なのかもしれない。
辛辣にバカ呼ばわりしたはいいが、『努力すればメンデルスゾーンのようになれると勘違いしているバカ』は彼ひとりではなかったらしい。
これ以降もその類の発言を聞くたびに、やっぱり笑い飛ばしていたのだろうか?
次回予告のようなもの
今回は本文自体が短い項だったので、サクサク行けた(当社比)。よかった。
次回は第1章-3。
フランクフルト、1825年:アンドレとベートーヴェン の巻です。
オッフェンバッハの街まで、モーツァルト研究家のアンドレさんに会いにいった二人。ベートーヴェンのことを悪く言われたメンデルスゾーンがとった行動とは……!?
よかったらまた見てくださいね!(じゃんけんはしません)
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