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「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 2

第1章-1.フランクフルト、1822年:フェリックスとの出会い

 1822年の夏、私は故郷のフランクフルト、麗しのフランクフルトに住んでいた。私はまだたったの11歳、『長髪の小さなピアニスト』として有名になり始めた頃だ。
 当時の私について一番知られていたのはおそらく『長髪』という点だと思う。確かに相当長かった。
 公開演奏もまだ一度しかしたことがなかった。
 ピアノはアロイス・シュミットに師事していた。いつも色んな街や国を飛び回っていたからか、変わった服装の人だったが、私を可愛がってくれていたし、私自身も彼を敬愛していた。

 冬になる前にシュミット氏がベルリンから戻り、ある神童の事を我々に教えてくれた。哲学者モーゼス・メンデルスゾーンの孫、素晴らしい演奏家であるだけでなく、四重奏、交響曲、オペラまでをも既に作曲していた!
 私もその頃、ちょっとしたポロネーズとロンドと「シェーネミンカ」の変奏曲――これは結構よくできていたと思う――を書いてはいたが、親愛なるフォルヴァイラー氏から和声と対位法を熱心に習っていたくらいだ。
 なのにその少年ときたら、私と2つ3つしか違わないというのに既に自作のオペラを指揮していたのだ。前代未聞の話である。
 確かに、私はモーツァルトもそうだったと知ってはいた。だがそれは、音楽家というより半神とでも言うべきモーツァルトの話だ。
 そういうわけで、ある日シュミット氏が我々のところへやって来て『今、メンデルスゾーン少年が一家でフランクフルトに来ているので、明日連れて来る』と言い出した時、私の期待はふくらんだ。

 当時私が住んでいた屋敷は、川辺が見えるそこそこ新しい棟と、その棟から繋がる、道に面した古い棟の二棟が並んで建っており、入口は共通の一カ所だった。
 新しい棟の窓からは中庭を見下ろすことができ、そのうちのひとつは家の扉に続く通路まで見ることができた。
 私はシュミット氏と約束した時間にその窓の前に立っていた。最高に焦らされながら待っていたので、扉が開き先生が現れたのが見えたときは褒美をもらった気分だった。
 彼の後ろから現れたのは、私より少しだけ年かさの、かの少年だ。彼はシュミット氏の背中になんとかぶら下がろうとピョコピョコ跳びはね、肩に手が届くと少しの間ぶら下がり、シュミット氏が数歩歩くとすべり落ちる。それを繰り返していた。
 「あの子、とても楽しそうだな」と私は思った。そして居間に走っていって、両親に待ち人の到着を知らせた。
 しかし私が一番驚いたのは、先程のやんちゃ坊主が居間に入って来た途端、所作の全てが上品で、生き生きと饒舌に話す時でさえ礼儀正しい、良家のご子息になっているのを見た時だ。
 実際に会った彼は、それまで伝え聞いていた話の中の彼を超える印象を私に与えてくれた。私が彼の訪問中ずっと、普段よりシャイになってしまっていたのも無理はない。

 次の日シュミット氏が再訪し、今度は私をメンデルスゾーン一家の元へ連れていってくれた。
 一家は六人であの『スワンホテル』の素晴らしい部屋に泊まっており、あたたかく出迎えてくれた。
 お会いしたのはそれが最初で最後になってしまったが、彼のお母上から受けた印象は忘れられない。
 彼女は小さなテーブルで仕事をしていて、私の話すこと全てに対しこの上なく親切に優しく耳を傾けてくれた。私の幼心の信頼を一瞬で勝ち取ったものだ。

 その部屋にはフランクフルトの四重奏団も来訪していたが、若き日のエドゥアルト・デフリエントがいたことしか覚えていない。親切でかっこよくて見るからに気品があるだけでなく、素晴らしいモーツァルトのアリアまで披露してくれて、私は感激した。
 私達は極上の音楽を味わった。フェリックスも自作の四重奏を弾いた――私の記憶が確かなら、確かハ短調(※)だ。しかし、その小さなサロンで私が一番衝撃を受けたのは、彼の姉ファニーが演奏したフンメルの「華麗なるロンド」イ長調だった。彼女はこの曲を真に弾きこなしてみせた。
 この時私はフェリックスとより親しくなった。そして2度目の訪問で、彼は私を非常に驚かせた。
 アロイス・シュミットのヴァイオリンソナタを一緒に見ていたとき、彼はピアノの上に横たわっていたヴァイオリンをさっと取り上げ、一緒にこのソナタを演奏しようと言ってきたのだ。華麗なパッセージは多少大掴みであったが違和感はなく、彼は自分のパートを非常にそつなくうまく演奏した。


※注 ピアノと弦楽のための四重奏(Op.2)。


以下、解説という名の蛇足(読まなくていいやつ)

「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる!1 で公開した序文にも日付が記してあった(1873年)通り、この回想録はヒラーがだいぶおじいちゃんになってから当時を思い出して書いた文章だ。
 50年前のフランクフルトの日々、旧友との愉快な出会いを思い出しているヒラーおじいちゃんのニコニコ顔が目に浮かぶ。

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 ちなみにこちらが、出版時期と比較的近い1865年に描かれたらしいヒラーの肖像画。全然ニコニコしてない。
 1847年に38歳で夭逝したメンデルスゾーンと比べると、ヒラーは1885年・74歳まで長生きしたので、当時新技術だった写真もバッチリ残っている。興味のある方はGoogleかwikipediaあたりで検索してみてほしい。

 どの肖像画・写真にも共通して言えることがある。
 おでこが広いというか、生え際が後退しているというか、彼が前進しているというか、まあ、髪がさみしい。

 それを知っていると、回想録の冒頭で髪が長かったことを強調していることにまた別の意味が生まれてくる気がする。これはつまり、冒頭から自虐的な笑いをぶっこんできているのではないか!?
 真実はわからないが、この後も読み進めていくとヒラーのおちゃめな文体に幾度も笑いがこみあげてくるので、きっとここも彼のユーモアなのだと思っている。つかみはオッケイだ。


 みんなご存じ! みたいな調子で出てくる「シェーネミンカ」という単語、当然存じ上げなかったので調べた。

○シェーネミンカ(Schöne Minka)
 ウクライナ民謡。原タイトルは「Ikhav Kozak za Dunaj」。ドイツ語圏ではシェーネミンカとして知られ、ベートーヴェン、ウェーバー、フンメルなど多くの音楽家が題材にしている。

 Schöne Minka で検索するとyoutubeなどでも動画がヒットするので、ご興味あれば聞いてみてほしい。
 当時の西欧人からすると、東欧はすごく民族的というか異国情緒あふれる土地というイメージで、ポーランドやハンガリー、バルト、ロシアあたりの民謡はよく題材にされたみたいだ。


 ヒラーが当時住んでいた家の説明などを経て、とうとうメンデルスゾーン少年が登場する。この登場シーンが可愛すぎる。
 このシーンを読んだ時点で、私はこの本を翻訳することを決めたといっても過言ではない。本文開始2ページ目でこんな可愛いメンデルスゾーンを持ってこられたら、もうノックアウトだよ。ヒラー博士はよく分かってらっしゃる。
 中庭に面した窓からコッソリ見たはしゃいだ姿と、実際に顔を合わせた時のギャップもたまらない。ヒラー博士はよく分かって以下略。

 メンデルスゾーン一家がフランクフルト滞在時に泊まっていた「スワンホテル」についても調べた。

○スワンホテル(Hotel zum Schwan)
 1592年創業の、超高級ホテル。シューマンやパガニーニ、フリードリヒ・ヴィルヘルム3世などもフランクフルト滞在時に宿泊している。
 1871年には普仏戦争の「フランクフルト講和条約」の調印式がこのホテルの一室で行われた。
 当時の建物は戦災で失われ、現在は跡地に映画館等を擁するショッピングモールが建っているもよう。

 https://de.wikipedia.org/wiki/Hotel_zum_Schwan (ドイツ語wikipedia)

 まあ裕福なメンデルスゾーン一家の逗留先だから、きっと豪華なホテルなんだろうとは想像していたが、想像以上の場所だった。
 というか不勉強ながら、フランクフルト講和条約がホテルの一室で調印されたことを知らなかった。なんかぼんやりと王城みたいなとこで調印したのだとばかり。


 メンデルスゾーン一家(の女性陣)についての記述。ここまでぜんっぜん触れられもしないが、フェリックスの父アブラハム・メンデルスゾーンについて、その人柄が分かる(かもしれない)発言をちょっとだけ紹介したい。

「私はかつて有名な父の息子だった。今は有名な息子の父だ」

 アブラハム・メンデルスゾーン(1776-1835)はドイツの銀行家、慈善活動家。兄のヨーゼフと共に1938年まで続くメンデルスゾーン銀行の基礎を築いた。アブラハムの父でフェリックスの祖父にあたるモーゼスは著名な哲学者で、フェリックスは有名な音楽家になった。
 アブラハム自身、ただの凡人ではないのだが、人並外れて優秀な父と息子に挟まれて、いろいろ思うこともあったのかもしれない。父と息子の「つなぎ」と自嘲交じりに思ったこともあるかもしれない。
 メンデルスゾーンの父については、第1章-3などでほんの少ーし記述が出てくる。

 そしてこのあと、メンデルスゾーンの神童らしいエピソードをさらっと紹介。メンデルスゾーンといえばピアノの腕前が有名だが、ヴァイオリンもプロ顔負けの演奏をこなしたという。
 また、ヒラー宅のピアノの上に無造作に置いてあることで推測いただけたかもしれないが、ヒラーもヴァイオリンが弾ける。もうやだこの人たち。何物も与えすぎでしょ、天。

人名解説

 人名がポンポン出てくるので、それぞれかんたんに調べてみた。
 そのうち人名録とか別に作らねばいけなくなるかもしれない。あと多分、地名や用語、曲名もか。

★アロイス・シュミット(Aloys Schmitt, 1788-1866)
 ドイツの作曲家、ピアニスト、音楽教育家。エアレンバッハ・アム・マイン生まれ。ヨハン・アントン・アンドレ、フォルヴァイラーに師事。
 ミュンヘン、フランクフルトなどで活躍した。
 (比較的)著名な弟子にヒラー、アルメンレーダー(Carl Almenräder, 1786-1846、作曲家・ファゴット奏者)、アーノルド(Carl Arnold, 1794-1873、作曲家)、ヴォルフゾーン(Carl Wolfsohn, 1834-1907、ピアニスト)、スローパー(Lindsay Sloper, 1826-1887、作曲家・ピアニスト)、ヴィルヘルム(Karl Wilhelm, 1815-1873、作曲家)などがいる。
★モーゼス・メンデルスゾーン(Moses Mendelssohn,1729-1786)
 ユダヤ系ドイツ人の哲学者、啓蒙思想家。フェリックスの祖父。メンデルスゾーン姓を名乗り始めたのは彼から。(父の名はメンデル。「メンデルの息子」という意味)
 貧困の中からほぼ独学で哲学を学び、知識人階層へ這い上がったタフマン。懸賞論文でカントに競り勝つなど数々の業績を残す。ユダヤ教徒の地位向上と身分的解放に大きく貢献した。
 ドイツの劇作家レッシングと親交深く、レッシングの代表作「賢者ナータン」のモデル。のちにスピノザ論争の主要論客となる。
 余談だが彼の使用していた眼鏡がベルリン・ユダヤ博物館に展示されている。昔の雑誌の付録についてた3Dメガネみたい。
★フォルヴァイラー(Georg Jacob Vollweiler, 1770-1847)
 ドイツの作曲家、音楽教育家。アロイス・シュミットやのちに登場するヨハン・アントン・アンドレの師でもある。
 ロンドンではアンドレと共に、当時の最新技術であるリソグラフィによる楽譜印刷出版事業に携わった。
★レア・メンデルスゾーン=ザロモン(Lea Mendelssohn Bartholdy-Salomon, 1777-1842)
 フェリックスの母。ベルリンジンクアカデミー合唱団のメンバーだった。同じくメンバーだったアブラハム・メンデルスゾーンと結婚する。
 才能ある歌手でありピアニストで、メンデルスゾーン家の音楽サロンを取り仕切るサロニエールでもあった。フェリックスにバッハ、モーツァルト、ハイドン、ベートーヴェンを勧めたひとり。
 1822年にフランクフルトの教会で夫と共にユダヤ教からキリスト教に改宗している。
★エドゥアルト・デフリエント(Eduard Devrient, 1801-1877)
 ドイツのバリトン歌手、舞台俳優、劇作家。メンデルスゾーンの友人。
 ベルリン、ドレスデン、カールスルーエなどドイツ各地で活躍。メンデルスゾーンのマタイ受難曲の蘇演、オペラ「カマチョの結婚」などで舞台に立った。
 1872年、メンデルスゾーンの回想録「Meine Erinnerungen an Felix Mendelssohn Bartholdy und seine Briefe an mich」(フェリックス・メンデルスゾーン・バルトルディの回想と私的書簡)をヒラーより先に著した。
★ファニー・ヘンゼル=メンデルスゾーン(Fanny Hensel-Mendelssohn, 1805-1847)
 ドイツのピアニスト、作曲家、指揮者。フェリックスの姉。弟フェリックスと仲が良く、仲良しエピソードには事欠かない。
 才能ある音楽家だったが女性だったため活躍の機会が非常に少なかった。弟フェリックスの名義で出版した曲もある。フェリックスが創始したとされてきた「無言歌」というジャンルも考案したのは実はファニーである説が現在は有力。グノーのアヴェ・マリアももとはファニーの演奏したメロディだという説すらある。
 周囲の理解をだんだんと得てこれから女性音楽家として活躍するぞ! という矢先に若くして亡くなってしまったのがとてもとても悔やまれる。

 文章量でお分かりいただけるかもしれないが、ファニーさん好きです。

次回予告のようなもの

 ずいぶん長くなってしまったが、ここまで読んでくれる方はいたのだろうか。いらっしゃったなら本当にありがとうございます。

 さて次回は、第1章-2。
 フランクフルト、1825年:フェリックスの即興演奏 の巻!

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