「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 18
第3章-2.アーヘン、1834年:ヘンデル『デボラ』
――この本の読者諸君の利益のために、私がこの楽し気な手紙につけ足せるものなど、ほとんど何もないはずだった。
しかし私は逆らえなかった。再びペンを手に取り、この本を捧げた友人に特に関係ない場面さえも要点を繰り返したりだらだらと語ったりして、この「魅力的なエピソード」をもう一度おさらいするという誘惑に。
1833年の夏、私はフランクフルトの母の家に住んでいた。その春には父を亡くしたばかり。その後私は、親切なフェルディナント・リースが私の好きにしていいと総譜をくれた、ヘンデルのオラトリオに夢中になっていた。
今まで『デボラ』の楽譜を見たことがなかったのでとても嬉しく、これといった目的もないままドイツ語に翻訳し始めた。
ひょんなことからリースに、今自分がしていることや、この秋に母を連れてパリへ戻ることを伝えると、彼から手紙が来た。もし望むなら、オラトリオの翻訳本を作り、音楽に伴奏をつけてくれないか、そしてそれを次のライン川下流域音楽祭で演奏するため、年内に準備を完了させてもらえないか、という内容だった。
私は最高の歓喜と共に申し出を快諾し、約束の期日までに仕事を完成させ、その報酬として音楽祭に招待された。
毎日親しく交流していたショパンは、私と同行しないかという誘いにすぐに乗ってくれた。
聖霊降誕節の時期に開催されず延期になるかもしれないというニュースが届いたときも、私達はせっせと旅行のプランを練っていたのだ。
旅行日程を延期することはできないと諦めかけていた時、結局予定通り聖霊降誕節の開催が許可されたと知った。
私は急いでショパンに知らせに行ったが、彼は物憂げな笑顔を浮かべて、もう行く気力がないよと答えた。
事実はこうだった。ショパンはいつもその財布の中身を、同郷のポーランド移民を援助するために惜しまず使っていた。旅費は別に確保してはいたけれど旅行が延期になったので、彼の金庫が空になるのに48時間もあれば十分だったということだ。
私がどうしても彼と一緒に旅をしたかったので、彼は色々考えた後、なんとかなるかもと言った。彼は素敵な変ホ長調のワルツの自筆譜を作り、それを持ってプレイエルのもとへ走った。そして500フランを手にして戻ってきたのだ!
その瞬間、私より幸せな人なんていたんだろうか?
アーヘンへの旅は大満足だった。光栄にも市長の邸宅に滞在を許され、ショパンもすぐ近くの部屋をあてがわれた。
私たちはデボラのリハーサルに直行し、なんとびっくり、嬉しいことにメンデルスゾーンに会えた。彼はすぐに一行に加わった。
当時のアーヘンのお偉方は、彼の偉大さをちっとも理解していなかったようだ。十二年後、彼の死の前年になってようやく、音楽祭の方向性を彼に委ねようと決めた。
解説という名の蛇足(読まなくていいやつ)
前回の記事ではメンデルスゾーンが母に宛てた手紙を紹介したが、今回はその手紙に書かれた時の出来事を、ヒラーの視点から語る。
この本自体が、メンデルスゾーンの偉人っぽくないエピソードを紹介するために書かれたものなので、もちろんここからが真骨頂だ!(笑)
ヒラーの父はもとはイザーク・ヒルデスハイムという名で、改宗してユストゥス・ヒラーを名乗るようになった。主にイギリスのテキスタイル商品を扱う、裕福なユダヤ人貿易商だったようだ。
ナポレオンがヨーロッパで大暴れしていた時、イギリスを孤立させようと大陸封鎖令という命令をだしていた。1806年に発令されたルールで、ガキ大将風に言えば、フランスグループのみんな(=同盟国)はイギリスと仲良く(=貿易)したらダメだかんなー! という感じだ。その命令を無視して、いわゆる密輸に近い方法でイギリスから運び出した商品をヨーロッパで売る。
こうして財を築いたユダヤ人は、当時結構多かった。一足先に産業革命に入ったイギリス製の品は、人気もあり品質も良く売れ線商品だったからだ。
パリ編の最後、「両親が戻ってこいと言ったので」ヒラーがパリを離れたのが1832年4月。それはつまり、父親の具合が悪いから戻ってこい、ということだったのかもしれない。ヒラーは一時パリからフランクフルトに戻ったが、ユストゥスは1833年4月に亡くなった。
フェルディナント・リースは前回の記事解説でも名前を出したが、ベートーヴェンの弟子で、若いころから技巧派ピアニストとしてブイブイ言わせていた音楽家だ。
楽譜のジェットコースターみたいな海外CMで、少し前に話題になってた気がする(リンクはyoutube)。
★フェルディナント・リース(Ferdinand Ries, 1784-1838)
ドイツの作曲家、指揮者、ヴァイオリン・ピアノ奏者。ヴァイオリンを宮廷楽団のコンサートマスターだった父のフランツ・アントン・リースに、チェロをロンベルクに、ピアノをベートーヴェンに、作曲・楽理をヴィンター、アルブレヒツベルガーらに師事。
世が世なら将来も何もかも約束されていただろうに、(だいたい)ナポレオンのせいで人生狂わされたひとり。
技巧派ピアニストとしてヨーロッパ中をコンサートツアーで巡り名声を得て、イギリスやボン、フランクフルトでは音楽監督・指揮者・指導者としても活躍。ベートーヴェン交響曲第9番の普及に大きく貢献した。
1825年からライン川下流域音楽祭の音楽監督を務める。1827年から逝去までの10年間をフランクフルトで過ごし、当地の音楽家たちとよく交流した。
師ベートーヴェンの回想録を共著者として執筆したが、出版直前に逝去。
多作な作曲家で、ピアノ協奏曲などは19世紀のピアニストのレパートリーとして人気だった。
リースさんがヒラーに気前よくポンと『デボラ』の楽譜をくれたことで、当時の楽譜がどれくらいの値段だったのかちょっと気になった。ちょっと調べた。
画像:Internet archive
この画像は、当時のドイツで一番読まれていた音楽雑誌「一般音楽新聞」に掲載された、ライプツィヒのブライトコプフ&ヘルテル社の出版楽譜公告(新刊案内)の一部だ。リースのピアノ協奏曲第3番(op.55)が3グルデンで発売されている。
当時のドイツの通貨に関して、以前の記事でも少し書いたが、当時の物価として、洋ナシとパンが6クロイツァーで、60クロイツァーが1グルデンだった。
ここで、洋ナシとパンを仮に400円として換算すると、3グルデンは1万2000円だ。物価の換算は、年収ベースにするか物価ベースにするかで相当変わってくるので、こちらは物価ベースとしてお考えいただきたい。
じゃあ年収ベースだとどんなもんか、と思い、計算に弱い頭を叩きながら換算してみた。ちょっと時代は前後してしまうが、こちらのサイトに、1フローリンは約0.5ターラーとある。ウィキペディアの統一ターラーの解説によれば、1ターラーが1.75グルデン。ということは、1フローリンは0.875グルデンだ。
かつ先述のサイトで、1815年ごろのオーストリアの下級役人・工場労働者・教師に共通するレンジが年収200フローリンと書かれているので、これを使い、500万円=200フローリンで計算してみる。1フローリンは2万5千円。3グルデンは約6万5千円になる。計算間違ってたらごめんね、「ちゃうでー」と教えてくれると助かります。
ごちゃごちゃと書いてしまったが、リースさんのピアノ協奏曲第3番の楽譜は、洋ナシとパン30個分、かつ一般的なお給料をもらってる人の月給の1/6くらいのお値段なわけだ。
現代でも楽譜は高価なものだと思うが、当時はもっと高級品だったとよくわかった。
ちなみに『デボラ』の楽譜は、リースさんのピアノ協奏曲の2倍くらいページ数がある。そもそもおそらく印刷されたものではない可能性も考えると、正直プライスレスだ。
そんなものを「好きにしていいよ! いらなかったら捨てちゃってもいいから!」と渡してくれるリースさん気前が良い。
リースさんからもらった『デボラ』の楽譜に夢中になり、英語で書かれている台本をドイツ語に訳したりしながら過ごし、リースさんに近況を報告したヒラー。
「秋に母を連れてパリへ戻る」ことについては、パリの友人たちショパン・リスト・フランショームの3人が寄せ書きのようにしてヒラーに宛てた手紙(1833年6月20日付)が残っており、そこには「9月には戻ってくるんだったよね?」と書かれている。早い段階でその予定は決まっていたようだ。
だったら、とリースさんが依頼してきたのが、
・オラトリオの翻訳本を作る
・音楽に伴奏をつける
・それを次のライン川下流域音楽祭で演奏するため、年内に準備を完了させる
というお仕事だった。結構な大仕事じゃない?
期限が半年ちょっとだと思うのだが、しかもパリへ戻ったり忙しいと思うのだが、ヒラーは喜んでこれを引き受ける。時々忘れかけるけど、そういえば、メンデルスゾーンだけじゃなくヒラーも相当才能のある音楽家なのだった。
尊敬する音楽家に仕事を任される、というのも嬉しかったのだろう。ヒラーは予定通りパリに戻った後も仕事に励み、約束の期日までに大仕事を成し遂げた。
ショパンさんはなかなか自分からどこかに遠出するようなアクティブな人ではないのだが、誰かに誘われて行く旅行は好きだったようで、「一緒にアーヘンの音楽祭行かない? メンデルスゾーンも来るかもよ」と誘われて快諾した。しかし、事態は面倒なことになっていた。前回の記事で先述した、音楽祭延期命令のせいでだ。
命令に従って宗教上の祭日(聖霊降臨祭)の開催を諦め延期する案が出ていたようで、そのニュースを聞いた時キャッキャと旅行のプランを練っていた二人は、延期になるんじゃ行くのは無理かも……とあきらめムードに。
だが前回の記事に載せた手紙にもあった通り、メンデルスゾーン達の尽力で予定通りの開催が決まる。
ヒラーは喜んでショパンのもとへ走ったが、時すでに遅し。ショパンはもう行く気力をなくしてしまっていた……というのは建前で、旅行の予定がなくなったと思ったショパンは、旅費のためにとっておいたお金を、ポーランド亡命者の援助に使ってしまっていたのだった。
ショパンの祖国ポーランドは歴史ある大国なのだが、隣近所に恵まれないというか、どうも17、18世紀あたりから特に旗色が悪い。周囲の新興大国に寄ってたかってボコられ分割されて、現在までに何度か地図から消えている。
この当時、ショパンの故郷ワルシャワはロシアの支配下にあった。ポーランドの他の地域は、プロイセンやオーストリアの支配下で、ナポレオン大暴れ時代はフランスの支配下にあった土地もある。
気骨があり強い愛国心をもつポーランド人達は、ロシアの支配に耐えかね独立を目指して、1830年11月に蜂起する(ワルシャワ11月蜂起)。ショパンがより高度な音楽活動のためにワルシャワを出発した直後のことだ。
この蜂起は失敗に終わり、暴動としてロシア兵に鎮圧された。その時国外退去になったり、自ら亡命を選んだりしたポーランド人の多くは、フランスを目指した。
隣近所は全てポーランドを分割した当事国(とその手下)だし、市民革命を成功させ自由の気風にあふれるフランスの雰囲気も、再蜂起を画策するにはよかったのかもしれない。
そんなこんなで、パリには亡命ポーランド人がたくさんいた。ショパンは、ワルシャワ蜂起に直接参加できなかった分を埋めるように、亡命ポーランド人を積極的に支援していた。もちろん、金銭面でも。
一度は無理だと言われたヒラーだが、どうしてもショパンと一緒に旅行したかったらしい。なんとかならない? と言い続けただろうし、お金を貸すことも申し出たかもしれない。
ショパンも多分、アーヘンでの音楽祭(というよりは友達との旅行の方かも)に行きたい気持ちはあったので考えた。そして、名案を思い付く。自筆譜を売って金にしたのだ!(聞こえが悪い)
ショパンの変ホ長調のワルツ、というのは資料によれば、ワルツに数えることもあるソステヌート(第18番)のことらしい。音楽家が自筆譜を書き起こしそこにサインを入れれば、それはもう立派なコレクターズ・アイテムだ。
その楽譜を500フランで買い取ったと書かれているのは、新進ピアノメーカーの二代目社長、カミーユ・プレイエル。ショパンがパリに到着後すぐの頃から、あれこれ手助けをしてくれるいい人だ。
ショパン賢い! よりも、プレイエルさんいい人だな……という感想が先に出てきてしまうけど、別にショパンが嫌いなわけではないです。
★カミーユ・プレイエル(Camille Pleyel, 1788–1855)
フランスの楽器製造者、ピアニスト。父のイグナーツ・プレイエルが起業したピアノメーカー・プレイエル社の二代目経営者。
プレイエル社の最新ピアノのショールームを兼ねたサル・プレイエル(プレイエルホール)は、当時の名演奏家たちが連日コンサートを行った。
1831年に才能ある女流ピアニストマリー・プレイエル=モークと結婚したが、彼女の身持ちが悪すぎて4年で離婚した。
また別の通貨が出てきた。国が違うから仕方ないのだが。フランスの物価に関してはこちらのページを参考にさせていただいた。
物価ベースだと1フラン1000円、年収ベースだと1フラン6000円くらいらしい。間をとって3500円で計算すると、175万円だ。
これだけあればレッスンを休んで旅行にお金を使ってもなんとかなるだろう。当初の予定通り旅行できることになったその時のヒラーさんは、世界一幸せだったとのこと。感情のアップダウンが激しい。
ショパンとヒラーがアーヘンへ向かったことは、フランスの音楽雑誌「ガゼット・ミュジカル」の記事になった。ここにも、ヒラーが『デボラ』の上演に携わったことが書かれている。ショパンも出演者の一員として記載されてしまっているので、ショパン独奏した説はここからきたのかも?
ヒラーは市長の邸宅に滞在、ショパンはその近くにリースさんが手配してくれた『ラインホテル』に宿泊したようだ。
ヒラーおじいちゃんはここには「光栄にも」などと当時の市長エームンツさんを持ち上げているが、母に宛てた手紙の中では、市長一家を「こちらの演奏を仕方なく聴いてる感じでウンザリ」と評している。
そして『デボラ』のゲネプロで、メンデルスゾーンと会ったシーンについては、先の手紙のとおり。ハグで絞め殺してやろうと準備していたことの真偽(笑)については、ここには書かれていない。
アーヘンのお偉方についての苦言があるが、なにか不利益でも被ったんだろうか。
次回予告のようなもの
まだまだ続くよライン地域ツアー!
3人は音楽祭の開催地アーヘンを後にして、メンデルスゾーンの現在の居留地・デュッセルドルフへ。
次回、第3章-3.ショパンとシャドウ の巻。
ぜひ漫画で見てみたい場面ベスト5に入るであろう場面です!(笑)
よかったらまた読んでくださいね。