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「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 44
第5章-5.ロンドン、1837年:ヒラー、イタリアへ行く!
遅ればせながら、私もついに旅に出た。まず初めにシュヴァルツヴァルトを徒歩であてもなく散策し、友人のフェルディナント・ダヴィッドと、その元気で上品で面白い奥方と一緒に、バーデンで楽しい数日間を過ごした。
それからチロルへ向かい、秋の終わりにはイタリアへ到着してそこで一冬を過ごした。気候がよくなってすぐ、子離れできない私の母が合流した。
下記のような、この当時メンデルスゾーンが私宛てに書いた手紙は、私のペンよりもよほど饒舌に、才能ある男の姿とその真の友情を語ってくれる。
ロンドン、1837年9月1日
親愛なるフェルディナント、僕はこの霧の中、妻もいない中、最悪の気分で君に手紙を書いています。一昨日の君の手紙が僕に催促しなかったら、こんなことしていなかったでしょう。僕は今日、あまりにも不機嫌で憂鬱だからです。
デュッセルドルフでセシルと離れ離れになってからもう九日です。最初の数日間は、とてもウンザリしながらも何とか我慢できました。でも今は、ロンドンの渦の中に巻き込まれてしまっています。あまりにも遠く――あまりにも多くの人々――僕の頭の中は仕事と経理と金銭問題と各種手配でぎゅうぎゅう詰め、もう耐えられそうにありません。
バーミンガムなんてそのまま放っておいて、セシルと一緒にくつろいでいたかった。そうしたら僕は、今日よりずっと人生を楽しめていただろうに。D○○n it! 君はこの伏字の意味、分かりますよね?
向こう三週間はこんな調子ですし、22日にはBでオルガン演奏、そして30日にはまたライプツィヒ……一言で言うと、仕事全部ぶん投げたい。
僕は妻のことをいささか溺愛しすぎているのだと思います。以前はあれほど好きだったイングランドも霧もビーフもポータービールも、今はこんなに苦くてつらいのですから。
君は素晴らしい旅をしているようですね。この手紙はインスブルックに向かうことになるから、僕よりいい景色を見られるでしょう。
インスブルックで、誰かシュヴァーツのクリスタネル氏を知っている人がいないか、尋ねてもらえませんか。彼は僕に二回手紙をくれて、偉大なアマチュア音楽家と名乗っていたのですが、彼についてもっと知りたいのです。
それで君は「エレミア」について真面目に考えながら、その間ずっとイタリアに向けてずんずん歩いているんですか? 今期中にオペラを作曲するために? 本当に君はイカれた「古典戯曲」ですね。
解説という名の蛇足(読まなくていいやつ)
前回・前々回と、新婚旅行先からのメンデルスゾーンの手紙を紹介した。今回からはまた2回に分けて、その新婚旅行を中断してイギリスへ出張しているメンデルスゾーンの、1837年9月1日付の手紙を紹介する。
ヒラーもついにフランクフルトを出発し、イタリア・ローマへ向けて移動中。シュヴァルツヴァルト(黒い森/フランスやスイスとの国境近くのドイツ・バーデン地方に広がる森林地帯)を歩き、バーデン(シュヴァルツヴァルト北部の温泉町)では以前の手紙でも結婚したと書かれていたフェルディナント・ダヴィッド夫妻と歓談し、インスブルック(オーストリア・チロル地方の都市)でシュヴァーツ(インスブルックの30km東の小さな町)に立ち寄りつつ、他の都市を経てローマへ向かっているようだ。
画像:Google map
インスブルックからローマの間に滞在した場所は分からなかったが、とりあえずフランクフルトからローマまでを地図にしてみた。
約1300kmの道のりを、途中の街でのんびりしながら旅していたようだ。楽しそう。
ローマに到着し落ち着いた頃(1838年春)には、ヒラー母も合流。「子離れできない私の母」という言い回し、お母さんへの愛があってすきだなあ。
さてさてそんな中、メンデルスゾーンは最悪の気分だった。前回までの手紙との落差がすごい。あんなに幸せ絶頂だったのに。
メンデルスゾーンのこの手紙は、1837年9月1日にロンドンから送られている。前回の手紙で書いていた「毎月1日にメンデルスゾーンが、15日にヒラーが手紙を書く」という約束、ちゃんと守られているようだ。
ロンドンは霧が濃いことで有名だ。陰鬱な霧の中、最悪の気分で手紙を書いている、との書き出し。ちょっと感じ悪いぞ。しかしそれも無理はない。新婚旅行を中断して、花嫁と離れ離れで仕事させられるんだものなあ。
それに加えて、どうやらロンドンでの仕事は『音楽祭に出席するだけのかんたんなおしごと』とはいかなかったらしい。
メンデルスゾーンが嫌々セシルさんと離れてロンドンまで来た理由は、この年のバーミンガム音楽祭に出席するためだった。
バーミンガムはロンドンからは200kmほど離れた町だが、親友のクリンゲマン氏もロンドンに住んでいるのでここに滞在していたと思われる。
バーミンガム音楽祭(Birmingham Triennial Music Festival)は、1784年から1912年まで3年に一度開催されていた、イングランドのバーミンガムでの音楽祭だ。もともとはバーミンガムの総合病院建設資金を集めるためのチャリティイベントから始まった。
メンデルスゾーンは複数回にわたり、自作の初演などでこの音楽祭に貢献している。1837年のこの年は、オラトリオ『聖パウロ』の指揮とオルガン演奏、『ピアノ協奏曲第2番(op.40)』の初演(ピアノ演奏はメンデルスゾーン本人!)がプログラムされていた。
画像:Wikimedia commons
こちらの画像は、1834年のバーミンガム音楽祭の様子。会場のバーミンガムタウンホールはこの年に完成し、その後長らくバーミンガム音楽祭の会場となった。
画面中央のパイプオルガン、メンデルスゾーンは聖パウロをこのオルガンで伴奏したと思われる。
ピアノ協奏曲第2番の初演は9月21日。オルガン演奏は手紙の中で22日と書いているので、メンデルスゾーンは少なくとも2日連続で大作を演奏したことになる。
他にも金銭問題やら各種手配やらで頭の中は大混乱。バーミンガムなんか放っておいて新婚旅行を続ければよかったと愚痴り、さらには「D○○n it!」である。せめてもの冷静さか、amを伏字にはしている。
メンデルスゾーンも「仕事全部ぶん投げたい」とか思ったりしたんだなあ、と、偉人の人間らしさを感じたりしてほしい。
最愛の妻がそばにいないと、イングランドも霧もビーフもポータービールも、以前ほどの魅力を感じられないとのこと。確かに重症ですね。ノロケ話ごちそうさまです。
解説の冒頭にも書いたが、この手紙はヒラーがローマまでの途中で立ち寄るインスブルックの街に送られた。チロル地方の風光明媚なインスブルックへ向かう手紙にすら恨めしげに羨望の目を向けるメンデルスゾーンを想像すると、可哀相かつ可愛くて笑みがこぼれてしまう。
画像:Wikimedia commons
こちらは1845年のインスブルックの街並みを描いた、ヤーコブ・アルトによる絵画。
神聖ローマ時代の面影を残す、ハプスブルク家にゆかりの街だ。歴史的建造物だけでなく、アルプスの山々に囲まれた自然美も楽しめる。
15世紀にはアルブレヒト・デューラーも街の風景画を多数描いている。
ロンドンがインスブルックに劣るかどうかは個人の好みによるとは思う。
メンデルスゾーンだってこう書いてはいるが、どうせセシルさんがいなかったらロンドンでもインスブルックでも同じだったんじゃない? などと思ってしまう。
この手紙の中でメンデルスゾーンは、ヒラーにお使いを頼んでいる。
インスブルックの誰か(おそらく音楽関係者)に、「シュヴァーツのクリスタネル氏」を知っている人がいないか尋ねてくれ、とのことだ。
シュヴァーツは、インスブルックから東に約30km離れたところにあるチロル地方の町で、木工芸が有名なところ。
音楽がお好きな方は聴いたことがあるかもしれない、長らく作曲者不詳だった「おもちゃの交響曲」が生まれた場所でもある。ハイドン兄弟だのモーツァルト親子だのが作者じゃないかと言われてきたが、真の作者はエトムント・アンゲラー神父(1740-1794)。彼が奉職していたフィーヒト修道院は、シュヴァーツのフィーヒト地区にあった。
★アントン・クリスタネル(Anton Christanell, 1801-1882)
南チロルのカルテルン(カルダーロ・スッラ・ストラーダ・デル・ヴィーノ)生まれの商人、音楽愛好家、アマチュアピアノ奏者。
オルガン奏者の父などに師事。シュヴァーツでの音楽演奏会を数多く主催・指揮した。
メンデルスゾーンを敬愛し、『聖パウロ』演奏時のメトロノーム指示を仰いだり作曲の依頼をした手紙が残っている。
アンゲラー神父がいた頃のフィーヒト修道院は音楽教育に力を入れていたので、音楽を志す若者がチロル地方中から集まっていたとのこと。
クリスタネル氏は年代的にはその少し後になるが、アンゲラー神父亡き後もしばらく音楽教育の中心地となっていたのなら、「偉大なアマチュア音楽家」の「シュヴァーツのクリスタネル氏」が育っても不思議はない。
グラーフ社のピアノでメンデルスゾーンの曲を録音したこちらのCD(リンクはamazon.co.jp)のブックレットによれば、クリスタネル氏はシュヴァーツで『聖パウロ』を演奏するため、メトロノーム指示を尋ねたり、乏しい楽器編成でも演奏できるよう序曲のピアノ編曲を依頼したりしたそう。
他にも、シュヴァーツの合唱団のためにコーラス曲の作曲を依頼。メンデルスゾーンは「祝典歌(Festgesang)MWV E2」を送ったとのこと。歌詞にはクリスタネルさんの提案で、ロシア皇帝がアルメニアを訪問した時に当地の総主教のヨハネ8世が捧げた言葉が使われている。
クリスタネルさんはこの曲を出版したり公開したりしないと約束していたが、メンデルスゾーンの死後すぐに、約束は無効になったとの解釈で出版を画策。結局出版はできず、ロシア皇帝に手渡されたらしい。えええ……。
メンデルスゾーンの自筆の楽譜と手紙は現在、ロシアのサンクトペテルブルク国立図書館が保管しているとのことだ。
ブックレットはCDメーカーがpdfを公開している。リンクはこちら。ドイツ語が読める方はぜひ。
という事で次に、サンクトペテルブルク国立図書館のサイトへ行ってみた。ひえっロシア語だ。Google翻訳先生にお願いすると、さらに複雑な状況が見えてきた。
もともとクリスタネル氏はこの曲を、オーストリア皇帝フェルディナント1世(マリア=テレジアの長男)の誕生日を記念したコンサートで演奏するために依頼。収益は貧民救済に使われる予定だったとのこと。
メンデルスゾーンの死後は、ドイツの出版社は彼の遺志を尊重し出版を見送ったが、なんとか出版にこぎつけたいクリスタネルさんは、「歌詞はロシア皇帝に献呈されたようなもの」⇒「ロシア皇帝に自筆譜ごと献呈して出版してもらお♪」と考えたらしい。邪悪な一休さんかよ。
実際にアルメニア総主教ヨハネ8世と面会したロシア皇帝はニコライ1世だったが、1855年に亡くなっていたため、後継者のアレクサンドル2世に渡ることとなった……らしい。
なかなか波乱の道をたどった自筆譜と自筆の手紙はロシア・サンクトペテルブルク国立図書館のサイト内でアーカイブを見ることができる。(ロシア語サイト)
ちょっと話題が反れたが、前述のブックレットによれば、ヒラーはこのメンデルスゾーンの依頼を聞き入れて1837年9月にシュヴァーツの街を訪れ、クリスタネルさんと面会しているらしい。
「詳細に語っている」とあるがどこで語っているんだろう。それ読みたいなあ。やはり覚え書きか、あるいはヒラーからメンデルスゾーンへの書簡とかだろうか? 誰か和訳してほしい。
ヒラーがイタリアへ向けてずんずん歩きながら考えている「エレミヤ」は、旧約聖書の「エレミヤ書」のことだと思われる。
ヒラーがイタリアで作曲するオラトリオ『エルサレムの破壊』は、エレミヤ書から題材を取っている。イタリアへ向かっているこの頃からすでに構想はあり、親友メンデルスゾーンには話していたということだろうか。
オラトリオ『エルサレムの破壊』は1840年に、メンデルスゾーン率いるライプツィヒ・ゲヴァントハウスで、ヒラー本人の指揮によって初演されることになる。
そういえば、メンデルスゾーンがヒラーを久々に「古典戯曲」のあだ名で呼んでいる。この部分は底本では「You really are a mad " old Drama."」となっていたので、イカれた古典戯曲と訳した。
mad認定した理由が、イタリアまで馬車を使わずに歩いてることなのか、エレミヤのことを考えながら歩いてることなのか、今期中にオペラを作ろうとしていることなのか、あるいはそれら全部なのかは判断がつきかねた。
なんにせよ、友愛のこもったからかいの言葉だと思う。
次回予告のようなもの
「最悪の気分で書き始めた手紙」だが、後半部分はイギリスで会った(あるいは会えなかった)人たちのことをポンポンと書きながらも、やっぱり愚痴と泣き言が大半を占める(笑)。
だけど最後の最後でちょっとおちゃめな追伸を書いているので、また覗きに来てもらえたら嬉しい。
第5章-6.女の子達が書くような、追伸 の巻。
次回もまた読んでくれよな!
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