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「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 11

第2章-4.パリ、1831~32年:チェス、そしてマイアベーア

 このパリで過ごした冬の間に、はるかに痛ましい出来事がいくつかあった。
 ある朝、メンデルスゾーンが泣きながら私の部屋へ飛び込んできた。最初、私に何と伝えるべきか言葉が見つからないようだった――彼の友人のヴァイオリニスト、エドゥアルト・リーツが亡くなったのだ。
 リーツの言動や演奏について語る様子全てが、彼にとってその喪失がどれだけ痛手だったかを物語っていた。
 数年後に発表された彼の書簡では、その悲しみが高潔で穏やかな調子で表現されていたが、最初は自分をほんの少しでもコントロールすることは難しかった。

 そのあとすぐにゲーテの訃報が届き、私にも深い悲しみをもたらした。しかしその素晴らしき人生の完遂に際しては、残念に思う気持ちよりも、賞讃の思いが勝ったかもしれない。
 メンデルスゾーンは私に、最後に「おじいちゃん」を訪ねた時のことをとても詳しく語ってくれた。バッハからベートーヴェンまでの現代音楽史を、ピアノの前でゲーテに語った概要も。
 彼はとても感情的に、ゲーテの死が老ツェルターにとってどれほど恐ろしい喪失かを語り、こう付け加えた。
「見ていなよ、彼もきっと長くはないよ」
 その予言は正しかった――数か月後、ツェルターは不朽の名声のその一角に名を加えてくれた友人のあとを追った。

 概して、出版されている書簡からも分かるように、メンデルスゾーンはパリで快適にのんびりと暮らし、その刹那の楽しみに躊躇なく身を任せていた。
 彼は空き時間によくチェスをした。彼はとても強くて、対戦相手はたいていマイアベーアの弟で詩人のミヒャエル・ベーアやヘルマン・フランク博士。博士はたまに彼を負かすことができる唯一の対戦者だった。
 フランク博士は非常に負けず嫌いだったので、メンデルスゾーンはあるフレーズを編み出し、勝つたびに毎回情け容赦なくビシビシと繰り出していた。
「私たちはほぼ互角に打ってましたよ――ほんとにほぼ互角です――ただほんのちょびっとだけ、僕の方が上手だったというだけです」

 マイアベーアは、メンデルスゾーンの才能を心から称賛していたが、メンデルスゾーンの方はそうではなさそうだった。
 彼がパリに到着してすぐ、ちょっとした面白い事件が起こった。
 メンデルスゾーンはよく『ロベール』の作曲家に似ていると言われていた。多分パッと彼を見た時に、全体の雰囲気、特に髪型が似ているのでその考えに至るのだろう。
 私はよくそれをネタにメンデルスゾーンをからかって不機嫌にさせていたが、なんとついにある朝、彼が丸刈り頭で現れた。
 この話題はいつも私達の間で鉄板の笑い話だった。マイアベーアが話の輪の中にいる時には特にだ。しかし彼はいつもの圧倒的善良さで、カドの立たない方法で言及するだけだった。


以下、解説という名の蛇足(読まなくていいやつ)

 第2章の4項は、パリで受けた訃報の話題からだ。
 エドゥアルト・リーツはメンデルスゾーンの親友で幼馴染のヴァイオリニスト。
 才能ある音楽家で、この夭逝はメンデルスゾーンだけでなく、ドイツ音楽界全体を悲しませた。

★エドゥアルト・リーツ(Eduard Ri(e)tz, 1802-1832)
 ドイツのヴァイオリン奏者、作曲家。ユリウス・リーツの兄。
 ツェルターに音楽理論、ピエール・ロードにヴァイオリンを師事。
 王立管弦楽団員だったが、1824年に体調不良のため演奏家を引退。ベルリン管弦楽協会を設立し、死の直前まで指揮した。
 メンデルスゾーンとはベルリン時代からの親友で、弦楽五重奏曲第1番(op.18)は初めリーツの演奏を考慮して作られたが、リーツの訃報を受け、その死を悼んで改訂された。
 他にもヴァイオリンソナタ(op.4)などの献呈を受けている。

 リーツは1832年1月23日に亡くなった。メンデルスゾーンの誕生日は2月3日なのだが、彼は親友の訃報を自分の誕生日に受け取ったらしい。キツい。
 手紙では冷静でも、実際はそうはいかない。取り乱したメンデルスゾーンの姿は、おじいちゃんヒラーの記憶にも鮮明に残っていたようだ。

 続けて、ドイツ音楽界だけでなくヨーロッパ中が悲しむ、ゲーテの訃報が舞い込んだ。これはヒラー自身にもだいぶ衝撃を与えたらしい。
 メンデルスゾーンが最後にゲーテを訪ねたのは1830年のこと。
 ツェルターの影響でベートーヴェンを軽視気味だったゲーテに、メンデルスゾーンがベートーヴェンという『推し』を布教したエピソードは、この時のことだとされている。
 ゲーテの忌日は1832年3月22日。メンデルスゾーンのパリ滞在は、12月~4月だったが、その間に親しい人の訃報を2件も受け取る羽目になってしまった。
 とはいえ、わずか30歳で亡くなったリーツとは違い、ゲーテは82歳。大往生と言っていい年齢だ。死を惜しむ気持ちはもちろんあるだろうが、幾分心持ちが違ったと思う。

 ゲーテの友人にして音楽監督にして、神童メンデルスゾーンをゲーテに紹介したツェルター。
 ヒラー語るところの『ゲーテのおかげで名声を得た』ツェルターは、弟子であるメンデルスゾーンの予言通り、ゲーテの後を追うように同年の5月15日に亡くなる。メンデルスゾーンはその報を外遊先のイギリスで聞いた。
 その後メンデルスゾーンは、ツェルター亡き後のベルリン・ジンクアカデミー音楽監督の座をめぐるゴタゴタに巻き込まれていくのだが、その件に関してはこの本ではあまり触れていない。
 他のエピソードのように別の書簡集などで既に語られているから省いたのか、あるいはヒラーとしても胸糞悪いから語りたくなかったのかは、不明だ。
 ともあれこのゴタゴタで、ジンクアカデミーは当時最大のスポンサーであったメンデルスゾーン一族の庇護と協力を失い、低迷期に突入する。

 悲嘆にくれることもあったが、メンデルスゾーンはパリ滞在をおおむねのんびり楽しんだ。
 ……とヒラーは書いているけど、ここまで悲報や残念な事柄がけっこう多くて、ほんとかい? とちょっと首をかしげてしまうが、ここからはほのぼのエピソードの代表、仲間とのチェスのエピソードだ。

 ヘルマン・フランク博士については以前の記事で紹介した。
 メンデルスゾーンはチェスが強かったらしく、ヘルマン・フランク博士が唯一、時々勝てた相手だそうだ。
 ご存知の通り、チェスは非常に頭を使うテーブルゲームだ。メンデルスゾーンの頭の回転の速さがうかがえる。
 この当時の「哲学博士」は、いわゆる哲学だけを修めた「博士(哲学)」ではない。
 この後学問は各専門分野に細分化していくが、昨今また耳にすることが増えてきた「リベラル・アーツ」「自由七科」というものがある。具体的には文法学・修辞学・論理学・算術・幾何・天文・音楽の7科だ。これをすべて修めた者が、哲学博士(PhD)の称号を得る。
 何が言いたいかというとつまり、フランク博士も相当の頭脳派ということ。そのフランク博士が時々しか勝てないのだから、メンデルスゾーンの頭脳たるやいかに、だ。

 もう一人、チェスの対戦相手として名が挙がっているのが、人気オペラ作曲家ジャコモ・マイアベーアの弟、ミヒャエル・ベーア。

★ミヒャエル・ベーア(Michael Beer, 1800-1833)
 ドイツ系ユダヤ人の詩人、小説家、劇作家。
 兄に音楽家のジャコモ・マイアベーア、銀行家・天文学者・作家・政治家のヴィルヘルム・ベーアがいる。
 1819年に始まるドイツユダヤ人の状況改善運動の主要メンバーの一人で、1821年に発足したユダヤ人科学・文化協会の創立時メンバーでもある。
 代表作に「クリュタイムネストラ」(1819)、「アラゴンの橋」など。
 ゲーテに影響を受けた作風であり、「パライア」(1823)はゲーテ本人にも称賛された。
 1824年よりパリに暮らし、多くのサロンに出入りする。ハイネ、ヒラー、メンデルスゾーンらと親交を深めた。

 マイアベーアと名字違うの? と思ったが、マイアベーアは祖父の遺産を継いでから祖父の名「マイアー」を姓の前につけた複合姓を名乗っていたらしい。
 マイアベーアとは仲がよろしくないことで有名だったメンデルスゾーンだが、意外にもその弟とは仲が良かったということだろうか。
 ベーアはパリを居心地よく思っていたようで、祖国ドイツと行き来する晩年を過ごした。と言っても彼も1833年に33歳の若さで亡くなっているので、晩年という言葉が適当なのか迷うのだが……。
 ベーアについては、家族による回想録も出版されているらしいが、同じく回想録を出版した劇作家仲間のカール・インマーマンは、メンデルスゾーンがデュッセルドルフ時代に軽くやりあう相手でもある。世間は狭いね。

 負けず嫌いのフランク博士に勝ってしまった時のメンデルスゾーンの決め台詞がすごい。
 これ言われて負けず嫌いの人間が「そっか~じゃあ仕方ないね」ってならないんじゃないだろうか。逆にムカつくとおもうんだけど。

 そして話題はマイアベーアへ。
 マイアベーアについても以前の記事で触れたが、メンデルスゾーンとは仲が良くなかったという証言をヒラーもしっかり残している。
 しかしそれはいささか一方的なもので、マイアベーアの方はメンデルスゾーンの才能を評価していたとのことだ。
 そもそもマイアベーアさん、一部から蛇蝎のごとく嫌われていたが、多くの文献や本人の日記などの分析を読むと、むしろ相当いい人だったことが伺える。
 押しも押されぬ大人気オペラ作家で、音楽だけでなくプロデュースや交渉の腕にも長け、他者への評価は冷静で誠実、裕福な実家の英才教育のおかげで高い教養を持ち、あの時代のフランスにおいて浮名を流すこともなく奥さんひとすじの純情派。完全無欠の優良物件だよ。
 後世の研究者たちが、『マイアベーアへの不当な低評価は、売れてた彼への嫉妬』という説を強く推すのも無理はない。
 ただ、音楽的に保守派の立ち位置にいたメンデルスゾーンが、オペラを一大スペクタクルエンターテインメントに仕立て上げたマイアベーアをよく思わなかったのは、どっちかというと「音楽性の違い」ってやつかなと、個人的には思っている。

 あともうひとつ、もともとそれほど好きじゃなかったのに「似てる」「似てる」と周囲から言われまくったことも、好感度が下がっていった理由の一つかもしれない。マイアベーアは全く悪くない。
 ヒラーもそのことでよくからかったとここにかるーく書いているが、言われた本人の方は結構気にしていたようだ。

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 この画像は、当時の有名音楽家たちを集めたピンナップポスター的な絵だ。
 この前列左から2番目がマイアベーア、後列右から2番目がメンデルスゾーン。ごめん、やっぱり似てるわ。

 よく聞くエピソードは、「お前マイアベーアとそっくりじゃん」と言われたメンデルスゾーンが取り乱して飛び出していき、髪形を変えて戻ってきた、というものだ。
 これについても前回の記事で書いた通り、メンデルスゾーンとマイアベーアは先祖を同じくする遠い親戚だ。出自にも共通点が多い。
 加えてユダヤ人の特徴とされる、くるくると巻いた濃色の癖毛や、高く大きな鼻、少し浅黒い肌なども、共通していた。
 欧米人から見るとアジア人は見分けが付きにくいように、アジア人ほどではなくてもちょっと見分けが付きにくかったのかもしれない。

「先祖がユダヤ教の偉大なラビ、モーゼス・イッセルレスで……」
(マイアベーアだな)
「実家が裕福で、ドイツで銀行家をやってて……」
(マイアベーアだな)
「きょうだい達もみんな才能豊かで……」
(マイアベーアだな)
「たれ目気味で、鼻が大きくて、髪が巻き毛の癖っ毛で……」
(マイアベーアだな)
「オペラで失敗した」
(……メンデルスゾーンだ!)

「髪形を変えて戻ってきた」エピソードは聞いたことがあったが、櫛や整髪料でどうにかしたレベルのものという印象だった。
 この本には、あまりにも揶揄われ続けてとうとうブチ切れたメンデルスゾーンがある日、丸刈り頭にしてきたとある。
 丸刈りってどれくらいの長さだったんだろう。
 筆者は弟たちが野球少年だった関係で見慣れている丸刈り頭は五分刈りと三分刈りだ。一瞬、五分刈り頭のメンデルスゾーンを想像してしまう。まさかそこまでではないと思うが。
 しかし真冬のパリで寒かろうに……と同情してしまったけれど、本人は案外、これで間違われなくて済む! とスッキリした気持ちだったかもしれない。

 ヒラーはこの話をすべらない話としてよく語っていたようで、なんとマイアベーアがいる前でもよく話していたらしい。すごい胆力。
 だがそんな話をされてもマイアベーアは、「圧倒的善良さで」角の立たない受け答えをするだけだったらしい。
 メンデルスゾーンはその場にいないんだから軽口をたたくことだってできるわけだが(実際ヒラーがしてるのはそれに近い気がするが)、それをしないマイアベーアさん、やっぱりいい人だったんだろうな。そして本当に、メンデルスゾーンに敬意をもっていたのだなと思った。


次回予告のようなもの

 今回はコンパクトにまとめられた気がする! わーい!

 次回は第2章-5。ショパンとカルクブレンナーの巻だ。
 悪友たちによる大御所先生イジリが行われる、有名なエピソードです。
 よかったら次回もまた、読んでくださいね!

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