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「メンデルスゾーンの手紙と回想」を翻訳してみる! 47

第5章-8.ライプツィヒ、1837年:ノイコムとノヴェロの話

 指揮ばかりの二か月間は、作曲ばかりの二年間よりもずっと多くのものを僕から奪っていきます。この冬はほとんど行きません。
 大騒ぎの末に、実際自分が何をしてきたかと自問してみても、結局話す価値のあることはほとんどないのです。少なくとも、良かったと思えたことがまた再現するかどうかに、僕は特に興味ありません。新しいことにだけ興味があるのに、ここではそれが足りないのです。もう完全に引退して、これ以上指揮もせず、作曲だけをしていたいと思うことも多いのですが、組織化された音楽システムと、それを指揮することには、やっぱりある種の魅力があります。
 まあそんなこと、ミラノで気にすることじゃないです。ですがもし君が僕に「好き好んでそこにいるのか」と尋ねるならば、答えなければいけません。

 バーミンガムでも感じたことですが、今まで僕の音楽がこれほど決定的な効果をあげたことも、聴衆が僕ひとりに夢中になるようなこともありませんでした。でもそれが何か――何と呼んだらいいんでしょう? 僕を力付けるよりむしろ悲しませ憂鬱にさせる、浮ついた一過性の何かに思えるのです。
 偶然にも、これらの讃辞から目を覚まさせる解毒薬がその場にありました――ノイコムの姿をとって。
 今回、聴衆たちは彼の価値を底値で買いたたき、最も冷酷な態度で彼を迎え、全ての手配において彼を隅へ追いやりました。三年前は彼を天の人のように崇め、他のどの作曲家よりも上に置き、一挙手一投足をもてはやしていたというのにですよ。
 君は彼の音楽に何の価値もないと言うでしょうし、その点は僕も同感です。ですが、過去に誰もをとりこにし、今も変わらず愛されている、そんな人を僕は知りません。
 僕はこの一連の出来事に憤慨していましたが、ノイコムの静かで穏やかな様子は、彼らとの対比で、威厳と立派さが二倍増しでした。彼のこの毅然とした態度で、僕の彼に対する好感度がぐっと上がりました。
 あとこっちも想像してみてください。ロフトのオルガン席から郵便馬車に直行し、六昼夜かけてとうとうフランクフルトに到着したと思ったら、次の日にはもう出発、最初のコンサートの四時間前に到着……驚きでしょう?

 さてそれから僕達は、君も知っての通り、八回のコンサートと教会での「メサイア」をこなしました。
 この冬の我らがスターは、クララ・ノヴェロです。六回のコンサートに出演し、人々をとても喜ばせています。
 あの元気で小柄な彼女の清らかな澄んだ声を聴くと、イタリアにいる君から彼女を奪ってしまったことをよく思い出します。本当はまっすぐそちらへ向かうはずだったのに、春までここに足止めです。
 しかし彼女にここへ来てくれるよう交渉できたことは、僕達に素晴らしい成果と利益を挙げました。今回コンサートに命と魂を吹き込むことができたのは彼女だけであり、大衆は彼女に熱狂しています。
 バセットホルンの伴奏で「皇帝ティートの慈悲」のアリア、ベッリーニの「清教徒」のポルカ、ヘンデルの英語のアリア(※)。民衆はもはや半狂乱、そして彼らはクララ・ノヴェロ以外では鎮まらないと叫んでいます。彼女は家族全員と一緒に来ていて、みんないい人たちです。君のことはよく色々思い出すそうですよ。


※注:ユダス・マカベウスより「From mighty kings he took the spoil(強大な王から彼は略奪した)」。

解説という名の蛇足(読まなくていいやつ)

 長らくお休みをいただいてしまったが、久々の更新は1837年12月10日付のメンデルスゾーンの手紙を3回に分けて紹介するうちの、2回目だ。
 前回紹介した前半は、新居に引っ越して幸せいっぱいのメンデルスゾーンが、役職になんかつきたくない!と中堅研究員みたいなことを言ってるところまでだった。
 今回はその続き。人気絶頂のメンデルスゾーンを憂鬱な気分にさせているものの正体についてだ。

 指揮ばかりの2か月は、作曲ばかりの2年よりずっとキツイ、と吐露するメンデルスゾーン。
「作曲ばかりの2年」はおそらく、指揮はそこそこで『聖パウロ』の作曲に注力していたデュッセルドルフ時代のことを脳裏に浮かべての言葉だと思う。
 この冬はほとんど指揮をしに行かない予定とのこと。新婚旅行でも良曲を生み出したメンデルスゾーンなので、新居での幸せいっぱいの生活の中でもまた、多くの名曲を生み出す意欲があったのだろう。
 ……単純にセシルさんとあんまり離れたくなかったのでは? という説も否定できない。

 大忙しのすったもんだでわーっと色々こなしはしたけれど、特筆すべきことはなかったと書いている。
 評判が良かった曲を何度も再演することを、メンデルスゾーンはあまり好ましく思っていないようだ。それよりも新しい曲を演奏したい気持ちが強いことが、この手紙からは見て取れる。
 まだ28歳なのに、完全引退して作曲だけしていたいと考えることもあるということだが、これはもしかすると手紙のあて先であるヒラーが敬愛する(そしてメンデルスゾーンはちょっと苦手としている)ロッシーニを念頭に置いているのかもしれない。
 ロッシーニは人気絶頂時に生涯年金契約を勝ち取り早々に引退し、その後長い隠居生活を楽しんだ。それでも30代までは働いてはいたんだが……。

 仕事全部ぶんなげたい、と嘆くこともあるメンデルスゾーンだが、それでも仕事を辞めない理由は、やはりそこに楽しさややり甲斐も見出しているからなんだろう。
 この時点では、メンデルスゾーンはライプツィヒの音楽監督に就任して3年目だが、1847年に亡くなるまで実に12年間、ライプツィヒで要職を勤め上げることとなった。
 その間も国内外のあちこちから「うちに来てくれ」「いやうちに」とヘッドハンティングの話がひっきりなしだったにも関わらず、ライプツィヒを離れなかったわけだから、それなりに愛着とやる気と熱意をもって職務を全うしたと思う。時々は友人に手紙で愚痴をこぼしたりもしながら。

 こんな暗いグチグチした話、ミラノには似合わないね! でも君が僕に「好きこのんでそこにいるのか」って聞くなら答えなきゃいけないもんね、と書いているが、前回のヒラーの手紙の内容が気になるところだ。
 メンデルスゾーンの激務を心配してか、あるいは新婚旅行を中断してまで仕事させられていることに義憤を感じてか、「お前は本当に好きでその仕事やってんのか? それでいいのか?」なんて言葉をかけたりしたんだろうか。
 激務が続く会社に勤める友人の疲弊っぷりを心配している現代人のようじゃないか。「そんなブラック会社辞めちまった方がいいんじゃないか?」とか。
 それに対してメンデルスゾーンは「仕事全部ぶんなげたい時もあるけど、でも仕事は魅力的なんだよね。それは間違いないんだ」と答えたわけである。

 多分これは古今東西普遍的な話だと思うが、どんな仕事でも、例え好きで選んだ仕事でも「つらいなあ」と思うことが一度もない、という事はほぼないだろう。
 200年前の大音楽家メンデルスゾーンも、現代の我々も、そう変わらない。似たような愚痴をこぼしては、また仕事に戻っていく。……そしてつらさの方が勝ったら、転職先を探す。デュッセルドルフからライプツィヒに転職したメンデルスゾーンのように。

 そして話題は、メンデルスゾーンが感じている「ぼんやりとした不安のようなもの」の話に。
 バーミンガムでは(自分がどう感じたかはまだしも)演奏会は大成功といっていいほどの熱狂ぶりで受け入れられた。だが、メンデルスゾーンにはそのことで浮かれた気分にはなれなかった。
 そもそも生真面目で厳格な部分があるメンデルスゾーンだ。ミーハーな騒ぎ方をされるのは好きじゃない。お下品です。
 その上、「今騒がれていても数年後にはどうなるか分からない」。その考えをまさに身をもって証明してくれる存在がいた。ノイコムさんだ。

 ノイコムさんは、以前の記事でも紹介した、ハイドンの弟子でオーストリア出身のピアニスト・作曲家だ。
 1830年代前半までのヨーロッパで非常に人気を誇り、ウィーン会議でも自作が演奏されたり、師ハイドンの作品を編曲したりで大活躍していた。
 が、その全盛期と比べて今や随分と冷遇されている……とメンデルスゾーンの目には映ったようだ。
 熱狂的な人気は長くは続かない、諸行無常、盛者必衰。すぐ横にそんな例が立っているとなると、自分の今の人気をおいそれと喜ぶのは難しいだろう。
 でも、ものすごい手のひら返しを見せつけてきた相手と対照的に、ノイコムさん本人は穏やかな様子だったらしく、好感度が上がったとのこと。
 以前の記事では「相変わらずお上品で不愛想」なんて書いていたくらいなので、メンデルスゾーンの心境の変化は大きい。
 しかししれっと自然にノイコムの曲に価値なんかないけど、と書いてるのにはちょっと笑ってしまった。辛辣!

 ここまで、おそらく文章を読みながらその場の光景を想像していただろうヒラーに、次はこっちを想像してみて、と言い出すメンデルスゾーン。
 どれだけ忙しかったかをちょっとおどけた口調で書いて、ここまでの重い空気を払拭している。それにしてもすごい強行軍だなあ……。

 さて、ライプツィヒのこの冬のスターは、以前も登場したヒラーの元教え子のクララ・ノヴェロ嬢。ノイコムさんを紹介した時と同じ記事で紹介済みだ。
 モーツァルト、ベッリーニ、ヘンデルを歌い、聴衆を半狂乱にさせるほど好評だった模様。ノヴェロ嬢はイギリス生まれだが、父方の祖父がイタリア人で、クオーターだ。父も楽譜出版者でありコーラスとオルガン演奏もできる音楽家なので、イタリア語と英語はお手の物だったと思われる。

 それにしても、さっき熱狂的な人気についての憂愁を書いたばかりの筆で、若く可愛いソプラノ歌手にライプツィヒ中みんなメロメロである旨を書くとは。うむむ……。
 ノヴェロ一家はみんないい人たちだよ、と書いているところを見ると、熱狂的な人気を少し冷めた目で見つめながらも、彼女の人気が失われて落ちぶれるところは見たくないな……くらいには好意的に思っているように見えた。
 しかしメンデルスゾーンは、ノヴェロ嬢をダシにしてヒラーを揶揄うのが好きだなあ。ひょっとしたらヒラーもノヴェロ嬢を憎からず想っていた……なんて打ち明けたことでもあったのだろうか。

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画像:Wikimedia commons
 こちらは、1833年に描かれたクララ・ノヴェロの肖像。作者はクララの兄のエドワード・ペートレ・ノヴェロで、1836年に夭逝している。
 この絵の頃のクララはデビューしたての15歳。ちょっとたれ目気味の、かわいらしい少女である。

 以前ライプツィヒのコンサートに出演してくれるよう彼女に要請したとヒラーに手紙で伝えたときも、「君からノヴェロ嬢を奪っちゃってごめん、でも仕事なんだ許して♪」なんておちゃめに揶揄っていた。
 メンデルスゾーンがノヴェロ嬢を材料にヒラーを揶揄う文面は、ここからもまだまだ続く。

次回予告のようなもの

 三回に分けた(比較的)長い手紙も、次回でようやくラスト。
 1837年10月29日に初演された、弦楽四重奏曲第4番のホ短調について書かれる。果たしてこの曲は、メンデルスゾーンお気に入りの自作になったのだろうか?

 第5章-9.お気に入りの自作、そうじゃない自作 の巻。

 次回もまた読んでくれよな!

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