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自分の感受性くらい

ようやく外の空気がちょっぴりひんやりして、秋、ですねえ。
前回の記事では「夏が来た」とか言っちゃって、季節に一回投稿かよ!と自らにつっこみたくなるわ。もうちょっと書きたい。

さて

こちらに来てから20代の若者たちと仕事をする機会が増えて、彼ら彼女たちの繊細かつまっすぐな気持ちに当てられるというか、ものすごく語彙力のない表現でいうと「感受性すげえな」と思うことが多い。

同じ土地の同じ風景を見ているのに、そこから感じ取るものが違う。
同じ人の同じ発言の場にいるのに、そこから思うことが違う。
経験もバックグラウンドもいまの立場も違うんだから、当たり前。なんだけど、それ以前として搭載している感受性センサーの感度が違う。

と思っていたら、ポッドキャスト「となりの雑談」でジェーン・スーさんがこんなことを言っていて、思わず膝を打った。いや運転中だったから本当には打ってないけど、そう、それそれ!と思った次第。

(敏感さがなくなったのは)加齢だよ、加齢。(中略)だんだんどんどん人間がつまんなくなってくるんだよね。それは素晴らしいことなんだよ。自分との折り合いがどんどんついてくるとそれだけつまんない人間になってくるんだけど、つまんなさって何かって言うと、平和とか幸せとかそういうことだから、それでぜんぜんいいんだと思うんだよね。ドラマがなくなるってことは幸せなの。

となりの雑談 EP86「鈍感さんと過敏さん」 

そんな訳で、私はそれなりに自分との折り合いがついてきて、つまんなくなってきてるってことで、それは言い換えると自分の感情や感性の反応予測がある程度固まっているということなのかもしれない。飛んできたボールに対して打ち返せる手数(経験)が増えたこともあるし、そもそも予測を大きく外れそうな場面をあらかじめの準備や根回しや他の人に対応を依頼したりして回避しているケースもままある。

その一方で、ふと茨木のり子さんの「自分の感受性くらい」を思い出したりして、自分の感受性をさていかに守っていこうかと考え中。
周囲や時代や暮らしのせいにせず、ちょっと鈍い感受性ながらもアンテナを立てながら、たまには安全地帯から出ていかないとね。

茨木のり子さんがこの詩を書いたのは、奇しくも48歳の時。
同じ年を迎える我が身の感受性の行く末やいかに。

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