「変える」と「変わる」

我々は絶えず変化する。
気分も体調も。髪の毛は日々伸びる。食べすぎればすぐ太る。
それでいて我々は何かを変えたいと日々願う。
怠惰な生活習慣を、貧困な英語力を、ネガティブな思考を。

変えたくないものは変わっていき、
変えたいものが変えられない。
そんな葛藤を経て我々はある哲学に辿り着く。

「なるようになるさ」

「なるようにしかならないさ」

と。

とはいえ、
怠惰な生活習慣で「なるようになる」のはメタボでしかない。
貧困な英語力では「なるようにならない」世界がある。
「なるようになる」と開き直れないからこそネガティブな思考へと陥る。

いつでも変えることは難しい。

社会も自分も親しい人の言動も。人は

「環境を変えさえすれば自分を変えられる」

と言うが、人はすぐにそれにも慣れる。
慣れればまた「変わらない自分」に逆戻りだ。
それなのに、どれだけ抗っても変わりゆくものがある。
無尽蔵な体力も、新しい世界への好奇心も、自由で奔放な精神も。

どうしたら変えられるのだろう?
どうしたら変わらないでいられるのだろう?

今年40歳になることもあり、
昨年頃から大幅なモデルチェンジの準備を始めている。具体的には、


①肉体改造、
②飲酒を含む食生活の改善、
③仕事のグローバル化、

である。
どれも面倒で億劫だし、変えなくても万事問題ないのだが、
人生は一度きりらしいから、
腹が出たオッサンにはなりたくないし、
旨いものを食べ続けたいし、
有名雑誌に英語の論文が掲載されてないだけで馬鹿にされるのも癪だし、
というのが駆動力になっている。

急激な変革は無理を来す。何より、怠け者には続かない。
思えば準備は10年以上前から始まっていた。
大学生のときから運動は断続的に続けてきた。
5年以上前から筋トレやジョギングを少しずつ始めてきた。
料理も結婚以来10年間続けている。
英語も勉強を続けて25年以上になる。
もしも今の私が、腹の出たメタボオヤジで、
少しの運動で息が上がり、
カタカナ英語しか話せなければ
それは荒唐無稽な変革プランになっていただろう。


さて、卒業式を前にして皆さんは大きな人生の転期に差し掛かっている。
それはおそらく、社会が皆さんに与えてくれる「最後の変化」であろう。
今後、仕事を変えるか変えないか、誰をパートナーに選ぶか選ばないか、
すべて自分の意思決定に委ねられる。
「変えたくない」「変わりたくない」と望めば
そのような環境やパートナー(の有無)を選択することも可能だ。
言い換えれば、今後の大きな変革はほぼ全て、
自分自身が主導・主管しなければならない。
当然、その報いはダイレクトに自分自身に返ってくる。
その果実は皆さんの人生を甘く瑞々しいものにしてくれるだろう。
そのツケはボディーブローのように軽やかだったフットワークを止めるだろう。

しかし、「いつか変われる」と願うだけでは、
頼みの綱が戦略的思考ではなく精神論であるならば、
時代の流れと重力と、何より怠惰で保守的な自分に懐柔されてしまう。
自分が変わらずとも、世界と世代と細胞は
目まぐるしくそして容赦なく更新されていく。
いつしかオジさんオバさんになって腹が出る。
新しい世界への感度と感動が衰えていく。
青春の歌が懐メロになる。
二十数年前、「私がオバさんになっても」と歌った森高千里は
未だ変わらぬ美貌とスタイルを保ち、
余人をもって代えがたいポジションを築いている。
彼女のしたたかでひたむきな戦略と努力が私には透けて見える。

数年後、さらに変化した姿で
それ以上に変化した皆さんと会えるのを楽しみにしている。
どうしてもシンドイときは少し休んでこう呟けばいい。
「なるようになるさ」と。

卒業おめでとう。
前途洋々たる未来を祝して。
(2017年3月17日)

ゼミ生と酒盛りします。