タイ仏教事始めと私との出会い

ある方からテーラワーダ仏教(上座部仏教)のグループに誘われました。しかし私はちょっと心配するところがあったので、「テーラワーダ仏教へのお誘いありがとうございます。しかし私の発言は、現在のテーラワーダ仏教の信仰者とは摩擦を起こすかもしれません。試しに一本書きますから、まずいなと思われたら遠慮なくグループから外して下さい」。

とお返事しました。それで、私の仏教との出会いから書き出したのですが、書いている内になかなか終わらなくなってしまいました。

まず私は医者で、高齢者医療をしています。そしてその中で、漢方と中医学、中医学と言うのは今の中華人民共和国が中国伝統医学を公式の医学として採用した際にてんでんバラバラだった流派を集めてどうにかして一本化したものですが、それを高齢者医療に応用してどれほど効果があるかを西洋医学の手法を用いて検証する仕事を長くやってきました。今は引退して、近所の精神病院で内科として身体病変を一手に引き受けています。

私はもともとマルキストで、宗教は民衆のアヘンであると言うのが出発点です。これは両親の影響で、私の両親はあの安保闘争のバリケードの中で知り合って結婚しました。父は弁護士でしたが、書斎にレーニン全集45巻がずらりと並んでおり、私はそれを小学校6年の時に読破しました。

そんな私の仏教との出会いはタイでした。研修医一年目、研修医と言うのはまさに修羅場なのですが、私の所属した研修病院は夏休みだけは1週間くれたのです。それで、私はともかくどこかで一息つきたいと思い、旅行会社にどこでもいいから海外ののんびりできる南の島に行きたいと言いました。それでアレンジしてもらった先がプーケットだったのです。

それまで私は東南アジアなどなにも知らず、プーケットがタイにあることすら知りませんでした。それで、私はプーケットに行って、まさに望んだ通りの南国リゾートを満喫したのですが、私の住む仙台からは、交通手段を乗り継いでその日のうちにプーケット直行便に乗ることはできません。東京かバンコク(タイ語では普通クルンテープと言いますが)で一泊しなければならないのです。地球の歩き方でプーケットがタイにあると分かったので、東京に泊まるぐらいならいっそバンコクに泊まることにしました。そして、私は見事にハマったのです、タイに。

タイにハマる外国人は非常に多く、医学的にはタイに行きタイ症候群と言います。治療法はなく、最低でも年に一回タイに行くと言う対処療法しかありません。中には結局タイに居着いてしまい、音信不通となる重病です。で、わたしもそれに感染したのです。
ところで、バンコクの正式名称はクルンテープではありません。正式には、กรุงเทพมหานคร อมรรัตนโกสินทร์ มหินทรายุธยา มหาดิลกภพ นพรัตนราชธานีบูรีรมย์ อุดมราชนิเวศน์มหาสถาน อมรพิมานอวตารสถิต สักกะทัตติยวิษณุกรรมประสิทธิ์
クルンテープ・マハーナコーン・アモーンラッタナコーシン・マヒンタラーユッタヤー・マハーディロックポップ・ノッパラット・ラーチャタニーブリーロム・ウドムラーチャニウェートマハーサターン・アモーンピマーン・アワターンサティット・サッカタッティヤウィサヌカムプラシットです。
意味は「イン神(インドラ、帝釈天)がウィッサヌカム神(ヴィシュヴァカルマン神)に命じてお作りになった、神が権化としてお住みになる、多くの大宮殿を持ち、九宝のように楽しい王の都、最高・偉大な地、イン神の戦争のない平和な、イン神の不滅の宝石のような、偉大な天使の都」。と言うことです。

もう皆さん覚えましたね。タイ人は小学校で、必ずこれを暗記させられます。そして大抵忘れます。ですから通常はクルンテープと言います。何故国外にはバンコクの名で知られる様になったかというと、タイが西洋に開国した時の船着き場がコーク村、つまりバーンコークにあったからです。最初に下船した場所の地名で覚えてしまった、と言うわけです。

とこんな風に私の話はしばしば脱線しますが、脱線がむしろメインであると思ってください。しかしこの首都の名前の中に、インドラ神やヴィシュヌカルマン神が出てくるところは、後にタイ仏教を語る時に大切な伏線になります。


話を戻して。


私はプーケットに行く時に、前に一泊、後に一泊クルンテープに泊まりました。そこで当然、日本人の男どもが普通する様に、一夜の恋人を買ったのです。タイに行きタイ症候群は男女問わず罹患しますが、女性の場合大体病原菌は食事です。男性は食事と女性が起因菌になります。


タイではほとんどのものが金で買えます。前川健一という、タイにものすごく詳しい作家がタイにお金で買えないものはあるか、と自問自答して、自分でも考え、タイ人にも訊きまくったあげく、タイでお金で買えないものは「チュラーロンコーン大学とタンマサート大学の入学試験だけである」という結論に達したそうです。この2つの大学は日本で言えば東大、京大で、金持ち権力者は誰でも子弟をここに入学させようとしますから、一度裏口を認めると収拾がつかなくなると言うので、この2つの大学だけは金で入学させないそうです。それ以外は愛でも友情でも奥さんでも何でも、タイに金で買えないものはありません。


それでなんだっけ。ああそうそう、私が一夜の恋人を買った話でした。その人は、私に会った時、サワディークラップ สวัสดีครับといいました。サワッディーสวัสดีは丁寧な言い方で「こんにちは」という意味です。初めて会った時とか、目上の人に挨拶する時とか、久しぶりに会った時だけ使います。通常はกินข้าวหรือยัง(キンカオルヤン?ご飯食べた?)とかไปไหน(パイナイ、どこ行くの?)が挨拶代わりです。


キーポイントは、その人の挨拶がサワディークラップ สวัสดีครับであってサワッディーカーสวัสดีค่ะではなかったと言うことです。末尾のクラップとかカーは、丁寧な印象を表現する時に使う語尾ですが、男性はクラップครับ、女性はカーค่ะと言います。その人はクラップครับと言ったので、男性だったと言うことです。私は男です。そして私が一夜の恋人として連れ出したのも男性。そう、私はゲイなのです。


で、若干タイムスリップして1年後、私はまたタイへ行きました。何しろタイへ行きタイ症候群にかかっていますから、年に1回はタイに行かなければならなかったのです。最初のプーケットはタイ南部の島ですので、今度はタイ北部の有名な観光都市チェンマイ(เชียงใหม่)に行ってみることにしました。クルンテープから飛行機で1時間ですが、夜行列車では一晩と半日かかります。特急と称するのですが、えらく遅い特急であります。でも私はまだ若かったので、この夜行寝台列車に乗りました。途中夕食に弁当売りが廻ってきたので、私は日本人が「タイカレー」と言っているケーン (แกง)を買いました。まだタイ語は覚えていませんでしたが、そんなときは指させばどうにか買えるものです。そのケーンには、鮮やかな緑色をしたつぶつぶの野菜がたくさん入っていました。食べてみると、口の中が火を噴きます。どうにか途中までは食べたものの、ついに諦めてしまいました。その緑色のつぶつぶは、生の胡椒だったのです。胡椒って白とか黒とかの色をしているんじゃありません。生の胡椒は鮮やかな緑色をしているのです。


まあ何とか、翌日の昼頃、私はチェンマイ駅に着きました。駅からホテルまでは、トゥクトゥク(ตุ๊กตุ๊ก)を雇います。三輪バイクの後ろを改造して、客が二人乗れる様にしたものです。このトゥクトゥクは、今でもタイで大活躍しています。一度クルンテープ当局が危険だというので禁止しましたが、結局生き残っています。ただ爆音が凄いのと、ガソリンの臭いが凄まじいのが難点です。


チェンマイについて私がまずやったのは、お寺巡りでもピン川クルーズでもありません。レディーボーイのゴーゴーバーに行ったのです。このレディーボーイのゴーゴーバーというのは、タイのちょっとした町や観光地には大抵あって、女装をした若い男性が歌と踊りとちょっとお下品な仕草をして観客を楽しませるものです。タイ名物の1つで、地球の歩き方にも紹介されており、良家の子女が行っても何ら差し支えありません。ただこのレディーボーイ達は、実際はオカマでもゲイでもなんでも無く、貧困地帯の二男坊、三男坊が都会に出てきて手っ取り早くお金を稼ぐためにやっているのです。もちろん、歌と踊りでお金が稼げるわけではありません。客に指名されるのです。指名するのはゲイの客です。当然、ほとんどは自分の国ではモテない、ブスの私みたいな親爺が指名します。その指名を受けると、本来ストレートの男の子が、客についていってセックスしてお金をもらうわけです。半分は店の取り分になりますが、外でやる限り幾らもらったかは店には分かりませんから、たくさんもらえればそれなりに良い稼ぎになります。AIDSなど性行為感染症のリスクと引き換えですが。


しかしその店「coffee boy」で私が目を付けたのは、ゴーゴーの踊り子ではありませんでした。店で客の注文を取ったり飲食物を運んだりしていた、チェンという男の子です。チェンというのは愛称で、タイ人は誰でも愛称をもっています。タイ人の正式名称はとても長いので、誰もお互いに覚えられません。だから普通は愛称で呼びます。タイ語で「誰々さん」と呼ぶ時はクンคุณ誰々、と呼びますが、その時も愛称で済ませます。チェンさんならクンチェンです。正式名称はみんな忘れてしまっています。そしてそのチェンに、私は本格的に恋に落ちたのです。


チェンとの恋人としての付き合いは2年に及びました。まだメールも何もない頃です。連絡は「手紙」ですが、その手紙というのが、しばしば途中でどこかに行ってしまいます。どこへ行くか分かりません。私は一度、幾ら手紙を出しても返事が来ないので、チェンの故郷であるコンケーンขอนแก่นの実家へ訪ねていったこともありました。そしたらチェンはクルンテープに仕事に行って留守で、しばらく帰ってこないというのです。私のタイ語はまだ幼稚でしたし、コンケーンの実家の人々はほとんど英語が話せませんから、近所からどうにか英語が分かる人を引っ張ってきて、一家総出で何とか会話してくれたのです。それで家族がチェンに連絡を取って、チェンがクルンテープから夜行バスでコンケンに戻ってきて、感動の?再会を果たしたというエピソードもありました。 今ではチェンとは永い友達です。森さんの差別発言ではありませんが、「恋人」と言うにはお互い歳を取りすぎました。それにチェンは元々ゲイではありません。お金のためにcoffee boyで働いて、時々客を取っていただけです。しかし親友としての仲は、お互いに50を過ぎた今でも続いています。だから私が言ったとおり、タイでは愛も友情もお金で買えるのです。


なかなか仏教にたどり着きません。しかし私がタイ仏教に触れる様になったのは、チェンと付き合った2年間の内に何度もタイに足を運び、敬虔な仏教徒であるチェンに付き合ってタイのお寺にお参りする様になってからです。当初の印象は、タイのお寺はなんとキンキラキンであることか、と言うことでした。日本の古刹というと、まさに古色蒼然としていますが、タイのお寺は金箔で飾り立てます。村は貧しくともお寺だけはキンキラキンというのがタイの寺です。貧しい村人が、娘を都会で体を売らせて寺に寄進して、寺がキンキラキンに輝くというのはどうなんだという問題意識はタイの知識人も持っていますが、現状はそうなっています。


タイ仏教の始まり

そろそろ話をタイ仏教に移しましょうか。タイ族というのは、昔は長江流域に暮らしていたと言われています。それが、6世紀頃漢民族に圧迫されて、玉突き状態で今のタイの辺りに逃げてきたのです。しかし当時のタイ周辺は、大半がクメール帝国とその衛星国に支配されていて、タイ族は小さくなって暮らしていました。ところがクメール帝国のスールヤヴァルマン7世が死去すると、クメール帝国の力は弱まり、タイ族の国ができはじめます。しかしタイ族の諸王朝ができる前に、今のタイの領域には、南部にシュリーヴィジャヤ王国(7、8世紀頃)、中部にモン族のドヴァーラヴァティー王国(6世紀から11世紀)、北部にハリプンチャイ王国(7世紀頃)という諸王国がありました。

クメール大帝国は王が替わるごとに大乗仏教を信仰したり、ヒンドゥー教を信仰したりして宗教は安定しなかったのですが、上記の諸王朝の中では、シュリーヴィジャヤ王国とドヴァーラヴァティー王国で上座部仏教が信仰されていたことが分かっています。伝説では、紀元前3世紀頃、アショーカ王が各地に派遣した使者がドヴァーラヴァティー王国に来て、スワンナプームの地で伝道を開始したことになっていますが、ドヴァーラヴァティー王国の歴史はどう遡っても紀元後6世紀からですので、この話は伝説に過ぎないと思います。ちなみにこの伝道を開始したスワンナプームという地名は、今タイの表玄関、スワンナプーム国際空港( ท่าอากาศยานสุวรรณภูมิ)の名前になっています。スワンナプームというのは現代のタイ語ではสุวรรณภูมิと書きますが、ウィキペディアの受け売りをすると、元はサンスクリット語のसुवर्णभूमि(スヴァルナプーミ)から来ていて、ドヴァーラヴァティー王国を建てたモン族の文字ではသုဝဏ္ဏဘုမ္ပိと書き、意味は「黄金の地」だそうです。ただこのスワンナープーム、黄金の地というのは伝説化していて、各国に「こここそがスワンナプームだ」という話がたくさんあり、どこが本当のスワンナプームなのかは分からないというか、本当にそう言う土地があったかどうかさえ明らかではありません。まあそれはさておき、この王国は今のクルンテープも領域に含み、海運を盛んにやっていましたので、ここに海の商人がインド仏教を伝えたとしても不思議はありません。実際、ドヴァーラヴァティー王国時代の仏教遺跡はたくさん発掘されており、また「ドヴァーラヴァティー様式」の仏像も多く残っていますので、この国が仏教国だったこと、そして主として上座部仏教が信仰されていたことは間違いありません。ドヴァーラヴァティーの仏教遺跡からは、モン語に加えてパーリ語、サンスクリット語などで書かれた碑文が出てくるので、それが分かるのです。ドヴァーラヴァティー様式の仏像は、今のタイの仏像よりゴツッとした、男らしい顔立ちをしているのが特徴です。たぶんモン族の人々がそんな顔立ちをしていたのでしょう。

さて、この辺で話をタイ族に戻します。タイ族と言っても、タイヤイ、ラーオ、タイ、シャンなどの部族に分かれるのですが、前述した様に、彼らの元々の先祖は長江流域に住んでいて、6世紀頃バラバラと今のラオス、タイ、ミャンマーの一部辺りに定着したと考えられています。しかし12世紀頃までは、強大なクメール帝国に抑えられ、独立国家を作るには至りませんでした。13世紀に入ると、クメール帝国が衰退し、さらに北方からモンゴルが襲来したことをきっかけとして、権力の空白が埋まれ、タイ諸部族の国々が出来はじめます。1259年、タイ・ルー族のマンラーイ王がランナー・タイ王国を建設し、都を最初はグンヤーン、次いでチェンライ、さらにはハリプンチャイ王国を滅ぼしてチェンマイに定めました。ランナーというのはタイ語で百万の田の意味で、「百万の田を持つタイ国」と言うことです。ランナー・タイ王国は独自の文字を持ち、例えばランナー・タイ王国と言うのは今のタイ語ではอาณาจักรล้านนาと書きますが、ランナー文字では違います。しかしこの文字はパソコンで上手く現すことが出来ません。どんな文字かはこのサイトをご覧下さい。この文字は今でもチェンマイ、チェンライなどに行くと寺の玄関に書かれています。

またメコン川流域では、1353年からラーオ族の「ラーンサーン王国」が始まります。ラーンサーン王国( ອານາຈັກລ້ານຊ້າງ)というのは百万頭の象の王国という意味です。

タイ中部では、まずやや北方のスコータイを中心に、1240年頃スコータイ王朝ราชอาณาจักรสุโขทัยが成立します。スコータイ王朝は1279年(異説あり)即位したラームカムヘン大王の時代に最盛期を迎え、現在のタイ文字の基礎もこのとき定められるのですが、仏教的には1347年に即位したリタイ王が仏教に深く帰依し、三界経を編纂したり、タイの歴史上初めて一時出家をしたりして、仏教の布教に努めたことで知られています。しかし、まあ、これは止まらない王朝の衰退を仏にすがって何とか食い止めようとしたわけで、当然そんなことをしても衰退を食い止められるわけはなく、1351年に起こったアユッタヤー王朝に吸い込まれる形で吸収合併されます。

1351年には、いくつかの有力な氏族が集まって、ラーマーティボーディー1世(ウートーン)を王に推戴し、アユッタヤー王朝(อาณาจักรอยุธยา)が開かれます。この王朝は、中国、インド、アラブ、ペルシャ、日本、ヨーロッパなどとの交易で大いに栄え、前述したとおりやがてスコータイ王朝を吸収してしまいます。そしてそれらとの交易で伝わった色々な文化や、元々あったクメール文化を元にして、かなり大規模な文化を花開かせました。

仏教の点からは、初代王のラーマーティボーディー1世が国を纏めるためにセイロンから仏僧を招いて上座部仏教を国家の公式な宗教とするとともに、ヒンドゥーの法典であるダルマシャスートラやタイでの慣習を元に三印法典を整備しました。三印法典は近代的な法典が整備される19世紀までタイの基本法典として機能することになります。ちょっと注意していただきたいのは、この時点で既にセイロンの上座部仏教にヒンドゥーの法典やタイでの習慣が加えられていたと言うことです。ですから、タイ仏教は上座部仏教とは言いますが、整備された当初から純粋な上座部仏教ではなかったのです。

このアユッタヤー朝は16世紀からミャンマーのタウングー王朝に執拗に攻撃される様になり、いったんは国が滅びます。しかし1590年にナレースワン大王によって国を回復し、ヨーロッパ帝国主義の侵略を受けたりしながらも、1767年にビルマのユンバウン王朝に滅ぼされるまで続きました。

初代ラーマティーボディー王はスコータイ王朝で生まれたダルマラージャ(仏教の保護者としての王)の立場を取り、仏教で国を治めようとします。しかし1424年に即位したアユッタヤー王朝第8代目のサームプラヤー( เจ้าสามพระยา)王、またの名をボーロマラーチャーティラート2世(สมเด็จเจ้าพระยาบรมราชาธิราชที่ ๒)はクメールのアンコールトムを攻略し、多くのクメール官吏を連れ帰り、バラモン教を採用してサクディナー(ศักดินา)制度という一種の封建制度を確立しました。これは現代まで続くチャックリー王朝時代1932年に起きたタイ民主革命で正式に廃止されるまで続きます。この制度の下ではヒンドゥー教(バラモン教)的な色彩が強い、「神の権化としての王」(デーヴァラージャ)と言う思想が生まれ、タイ語にサンスクリット語の単語が多数入り込み、文学、演芸など文化面でもヒンドゥー教の影響が強くなります。しかし仏教が否定されたわけではなく、王はデーヴァラージャであると共に仏教的には転輪聖王(チャクラヴァルティラージャン)でもあるとされていました。つまりこの時代に、タイは仏教とヒンドゥー教が複雑に混じり合ったのです。

チャクリー王朝期のタイ仏教
さて、栄華を誇ったアユッタヤー王朝ですが、ビルマとの長期にわたる確執のあげく、コンバウン王朝の侵攻による1765年からの泰緬戦争(1765-1767年)により、ついに1767年4月、首都アユッタヤーは攻め落とされ、滅亡してしまいます。
しかしコンバウン王朝は清に攻められ、タイどころではなくなり、タイ領からほぼ撤収して圧力が弱まったこともあり、華僑の父とタイ人の母をもつタークシンが、華僑の支援のもと、1767年10月に奪還した要衝トンブリーを拠点としてアユッタヤーのビルマ勢力を排除することに成功し、1768年12月末にタークシン(在位1768-1782年)は王位に就きました。トンブリー王朝です。タークシンは勢いをかってカンボジアやラーンサーン王国も攻略し、支配下に置きます。彼は仏教の熱心な信者だったのですが、後年精神に異常を来し、仏僧に自分を拝めと強要するなど異常な行動が目に余ったため、1782年初頭、クーデターにより追い詰められ、カンボジア遠征から戻ったチャオプラヤー・チャクリー将軍により同年4月6日処刑されました。このチャオプラヤー・チャクリーが現在まで続くチャックリー王朝の始祖になります。

と一般には言われているのですが、タークシン王が狂乱してやむなく部下のチャックリーが処刑した、というのは、処刑して権力を奪取したチャックリー王朝が記録したものです。ですから、この話はかなり誇張されていると思います。そもそも、タークシン王が錯乱した実例として、仏僧に拝めと強要したことしか記されていないのは妙です。本当に錯乱したのなら、王を切って王朝を簒奪したチャックリー王朝としては、もっとこれでもかこれでもかと狂気の実例を挙げるはずです。それがたかだか自分を拝ませたことぐらいしか記録されていないのは、どうも偽造の臭いがします。しかしトンブリー王朝はタークシン王一代で滅んでしまったため、自分で自分の歴史を残すことが出来ませんでした。従って、今私たちは、征服者のチャックリー王朝が書いた歴史しか見ることが出来ないわけです。

チャックリー王朝における仏教について特筆すべきは第4代モンクット王の話ですが、それは次の章に廻します。第3代ラーマ3世のことだけ簡単に書いておきます。えーと、チャクリー王朝の王は第6代から対外的にはラーマと名乗る様になり、第3代王も遡ってラーマ三世(รัชกาลที่ ๓)と呼ばれます。なおรัชกาลที่ ๓とは「ラーチャカーンティーサーム」と読み、第三代王と言う意味です。この王の時代、仏教には特に目立ったことはありませんでした。確かにラーマ3世は信心深い国王としても知られます。仏日には功徳のため貧困層の人民に食料を配給したり、動物を人間の手から解放したりしたと言います(タイでよく行われる功徳(タムブン))。また50以上の寺院を建立・修繕したといわれます。まあでも、こういうのってなんかありがちな話で、王様ならこのぐらいやるだろう、って言う気がしますね。


ラーマ3世の時代でもっとも特筆すべきことは、1826年、イギリス(正確に言うと、まだこの時点ではイギリス本国とでは無く、イギリス東インド会社ですが)と通商条約(バーネイ条約)を締結し、1833年にはアメリカとも外交上の条約を交わしたことでしょう。ついにタイも否応なく欧米の帝国主義と相対することになったのです。

ところで、先ほども書いた様に「รัชกาลที่ ๓ラーチャカーンティーサーム」は単に第三代王と言うだけです。この人に名前は無いのかと言われれば、あります。俗名は、เจษฎาบดินทร์ チェーサダーボーディンです。正式名は、誰も読めません。まあ一応書くだけ書いておきます。どうせ尊敬や祭り上げ等々が連なっているだけですから、意味なんか分からなくて良いと思いますが。
第三代王の名は、ソムデットプラボーロマラーチャーティラートラーマーティボーディー・シーシントーンボーロママハーチャックラパッディラーチャーティボーディン・トーラニンタラーティラート・ラッタナーカーサパーソックラウォン・オンパラマーティベート・トリープーワネートラウォーラナーヨック・ディロッカラッタナラーチャチャートアーチャーワサイ・サムッタイカローモン・サコンチャックラワーラーティメン・スリイェンタラーティボーディン・ハリハリンタラーターダーティボーディー・シースウィブーン・クンアッカニット・リッティラーメースワラマハン・ボーロマタンミカラーティラート・デーチョーチャイ・プロムテーパーディテープナルボーディー・プーミントーンパラマティベート・ロークチェータウィスット・ラッタナモンクットプラテーサカター・マハープッターンクーン・ボーロマボーピット・プラプッタチャオユーフワ
สมเด็จพระบรมราชาธิราชรามาธิบดี ศรีสินทรบรมมหาจักรพรรดิราชาธิบดินทร์ ธรณินทราธิราช รัตนากาศภาศกรวงศ์ องค์ปรมาธิเบศร์ ตรีภูวเนตรวรนายก ดิลกรัตนราชชาติอาชาวศรัย สมุทัยคโรมนต์ สกลจักรวาลาธิเมนทรต์ สุริเยนทราธิบดินทร์ หริหรินทราธาดาธิบดี ศรีสุวิบูลย์ คุณอกณิฐ ฤทธิราเมศวรมหันต์ บรมธรรมิกราชาธิราช เดโชไชย พรหมเทพาดิเทพนฤบดินทร์ ภูมินทรปรมาธิเบศร์ โลกเชฐวิสุทธิ์ รัตนมงกุฏประเทศคตา มหาพุทธางกูร บรมบพิตร พระพุทธเจ้าอยู่หัว
と、言います。

ラーマ4世、モンクット王と仏教


さて、いよいよタイ仏教に重要な関わりを持つチャックリー王朝第4代王、モンクット王(รัชกาลที่ ๔、มงกุฎ,ラーチャカーンティースィー、モンクット)の話をいたします。ちなみに今私の机の上には、石井米雄著「もうひとつの王様と私」という本と、青木保著「タイの僧院にて」(中央公論社)が載っています。


ところが、モンクット王の話に入る前に、また脱線します。モンクット王はラーチャカーンティースィー(รัชกาลที่ ๔)、つまり第4代王ですが、その前のラーチャカーンティーサーム、第3代王の時にイギリスと始めてバーネイ条約を結び、タイも西洋帝国主義とぶつかることになったという話は既に書きました。その時の逸話なのですが、ビルマを征服して植民地化したイギリスは、タイとの間に条約を締結し、自分の植民地とタイとの間の色々な取り決めをしようとしました。正確には、イギリス本国と言うよりイギリス東インド会社のHenry Burneyと言う人が交渉に当たり、それでバーネイ条約と呼ばれるのですが。その時起こった珍妙なエピソードがあります。バーネイは「我々はビルマを支配地とした。拠ってあなた方サヤーム(タイの当時の呼び方です)との国境線を確立したい」とチャックリー王朝に提案したのです。それを聞いたチャックリー王朝の反応は、「国境線って、なんだ?」というものでした(「地図が作ったタイ」トンチャイ・ウィニッチャクン」)。


これまでタイには色々な王朝が興亡し、その周辺にも様々な国があって、とお話ししましたが、当時「国境線」という概念はなかったのです。例えばタイとビルマは何度も戦争しましたが、それは「支配する町」の取り合いであって、「ここからそっちがビルマ、こっちがタイ」という線の概念は存在しませんでした。それはそうです。タイとビルマの間には、広大な熱帯雨林が拡がるだけですから、そんな密林に分け入って線を引こうなどと考える人はいなかったのです。ビルマとタイの間でさえそうでしたから、ましてチャックリー王朝とランナータイ王朝の間の国境線は、なんていうものは誰も考えつきもしなかった。クルンテープとチェンマイの間にいくつかの町があって、その町ごとの領主がどっちに近いかで、なんとなく濃淡があっただけです。


それで、イギリスからそう言われたラーマ三世時代のチャックリー王朝は、「そんなら勝手にどうぞ」というわけで、イギリスの探検隊が海からだんだんと北の密林に分け入って、国境線を確定させていったのです。まあご苦労なことであります。で、ずっと北に行くといつの間にかランナータイ王朝の支配領域に入ります。そこでイギリス探検隊がチェンマイのランナータイ王家に挨拶に行って、「コンチワー、タイとビルマの国境線を引きに来ました」と言ったらランナー王家から、「いやウチはチャックリーのタイではなくランナータイだから、クルンテープの連中が何を言ったか知らないが、そんなのこっちは知らないよ」と言い返され、脱力してランナータイともう一度「そもそも国境線というものがあって」という話からやり直したという逸話があります。


えー、脱線終わり。


で、いよいよラーチャカーンティースィー(第四代王)、モンクット王の話をします。モンクット王は1804年、ラーチャカーンティーソーン(รัชกาลที่ ๒)、つまり第二世王の最高位の王子として生まれました。幼少期のモンクットは(王様に対しては失礼ですが、都合上呼び捨てにします)、伝統に従い、高僧からタイ古典文学、パーリ語仏典、王朝史、「王の十徳」と呼ばれる道徳、伝統的な宇宙観などを教えられ、さらに騎馬術、騎象術などの帝王教育を受けました。そして13歳の時「ソーカーン」と呼ばれる成人式を受け、剃髪します。さらに14歳になって、「サーマネーラ」と呼ばれる少年僧として一時出家します。


最近は廃れてきましたが、タイにはつい最近まで、男性が成人を迎える時は一時出家をする習慣があったのです。このときは形式的なものですから、7ヶ月で還俗し、宮廷で官位を与えられました。なお一時出家とは言いますが、タイのサーマネーラはサーマネーラだからと言って他の僧侶と異なるわけではありません。黄衣をまとい、227の僧侶に要求される戒律を守らなくてはならないのです。


さて、一時出家は7ヶ月で終わりましたが、5年後の二十歳の時、王宮に飼われていた白象が死ぬという事件が起こりました。これは当時大変不吉な予兆と考えられ、三世王の命令によってモンクットは厄払いのため再び出家させられたのです。


公式にはそう語られていますが、白象が死んだというのは、モンクットを再び出家させる口実であったとも考えられます。というのは、そもそもモンクットは第二世王の最高位の王子でした。ところが第二世王が亡くなったとき、モンクットはまだサーマネーラであり、若すぎたのです。時はイギリスという得体の知れない連中がやってきて、長年タイを苦しめたビルマをあっという間に滅ぼし、タイにもやってくるんじゃないかという状況でしたから、ここで幼年の王というのは拙いという意見が強く、モンクットより王位継承権が低かった เจษฎาบดินทร์,チェーサダーボーディンが投票の末第三代王となったのです。ですので、第三代王とモンクットの間は微妙でした。第三代王は即位の時、モンクットに「あなたが成人したら王位はあなたに譲ろう」と言ったらしいのですが、結局それは反古になってしまいました。ですので、二十歳になったモンクットは第三代王からすれば厄介な存在だったのです。白象が死んだというのは、格好の口実で、モンクットを僧院に追いやってしまった、と言うのが本音ではなかったかと思います。


こうして、モンクットはチャオプラヤー川左岸にあったワット・サモーライ、現在のワット・ラーチャーティワート(วัดนราธิวาส)の僧侶になります。ワット( วัด)というのはタイ語で寺です。仏教の寺に限らず、どんな宗教の寺も皆วัดです。


ワット・サモーライの僧になったモンクットは、ワット・サモーライが禅定(タイ語でウィパッサナー・トゥラ)を重視し、そもそもの仏典の研究(カンタ・トゥラ)を疎かにしていることが不満でした。モンクットが寺の高僧に「何故仏典に依拠せず、禅定を常とするのか」と尋ねても、高僧は古来からの習慣である、としか答えてくれなかったそうです。それで、彼はワット・サモーライを去り、ワット・マハータートに移りました。ここで彼は3年間とどまり、パーリ語仏典に没頭します。それを見ていた三代王は、彼にパーリ語の資格試験を受けるように勧めました。1段、2段は省略して、第3段の試験から受けました。これを易々とクリアし、4段、5段を次々突破します。その時試験官が呆れて、「どこまでおやりになるのですか」と尋ねたそうです。そこで三世は、モンクットに最高段の9段に準じた「位階扇」を与えました。


しかしワット・マハータートでも、意味も考えずに経典を読誦し、ひたすら禅定を組むことにかわりはありませんでした。ここでモンクットはタイ仏教に絶望し、いったん還俗を考えるのですが、その彼にペグー出身のモーン僧が経典に基づいた禅定の意義を説明してくれたので、還俗を止め、ワット・サモーライに戻って修行を続けます。


モンクットは二世王の息子ですが、僧侶である限り日々の行動は通常の僧侶と変わりません。日の出と共に托鉢に出て、善男善女から食物の供養を受けます。路地の隅々まで足を運んだモンクットは、庶民の生活を肌で知ります。モンクットの修行行脚はクルンテープに止まらず、数百キロも北方のスコータイまで足を伸ばしたと言います。その時、彼はスコータイ王朝最盛期の王、ラームカムヘン大王の碑文を発見したのでした。


キリスト教との出会い


モンクットが住んだワット・サモーライのすぐ隣に、コンセプシオンというカトリック教会がありました。この教会はアユッタヤー王朝の頃からあり、当初はポルトガル人が中心でしたが、やがてフランス人宣教師のものとなります。これは、当時のアユッタヤー王朝が、幅をきかせるオランダ東インド会社の対抗馬としてフランスを優遇したことが由来です。しかしモンクットがいた19世紀には、コンセプシオン教会の活動は細々と続いているだけでした。ここで、「もう一人の王様と私」が登場します。


実は、これまで話してきたモンクットは、たぶん皆さんもどこかで名前ぐらいは聞いたことがある「アンナとシャム王」或いは「王様と私」という小説、ミュージカル、映画になったその「王様」です。ユルブリンナーが主役を務めた映画の印象が、私には一番強いですが、皆さんご存じでしょうか。


アンナ・レオノーウェンス(Anna Harriette Leonowens)はモンクットが後に第4代王として即位した後に、その子供達を教育するために雇われた実在する家庭教師です。彼女はアングロ・インディアン、つまりイギリス領インド帝国の生まれで、自分がタイに滞在した経験を元に、『The English Governess at the Siamese Court 』(1870年)という手記を発表しました。この中でモンクット王は未開の野蛮な権力欲の強い王として描かれており、それをアンナが西洋の知識で開化したことになっています。ですから、それを元にした小説もミュージカルも映画もそうなっています。諸外国ではかなりの人気を博しましたが、タイではモンクット王を侮辱するものとして、発禁になっています。しかし、モンクットと出会った西洋人は何もアンナに限ったことではありません。もう一人、フランス人神父パルゴア(Pallegoix)という人がここで登場します。


パルゴアは偶然ですが、モンクットの1歳下です。細かい経歴はすっ飛ばしますが、フランスの色々な修道院で修行を積み、1823年、23歳の時にサヤーム(タイ)での伝道を命じられます。タイに着いたパルゴアは、タイの方々に足を運んでタイの実情を見聞した後、29歳の時クルンテープのイマキュレ・コンセプシオン・ド・ラ・セントヴィエルジュ小教区で働き始めます。そしてこの小教区は、モンクットがいたワット・サモーライに隣接していました。


さて、パーリ語に精通したモンクットは、今度はラテン語に興味を示します。まずポルトガル人宣教師について勉強を始めますが、やがてすぐ隣のコンセプシオン教会にパルゴアという修行を積んだ神父がいることを知り、ラテン語の個人教授を依頼します。このときモンクットはパルゴアから、ラテン語だけでなく、数学、天文学、物理学、化学など近代科学全般についても基礎的知識を教わったようです。つまりパルゴアがキリスト教だけでなく、そうした科学的知識を豊富に持った人物だったと言うことです。


モンクットがパルゴアから学んだだけではありません。パルゴアもまた、モンクットからパーリ語、タイ語、伝統的タイ文化について学んでいきます。パルゴアはアンナとは違い、「自分こそ西洋文明の体現者であり、未開で無知の現地人にものを教えてやるのだ」という態度の人ではありませんでした。パルゴアがどれほど学んだかというと、1850年にラテン語で「シャム語文法(Grammatica Lingua Thai)」を現したことでも分かるでしょう。文法とは言いますが、この本は文法に止まらず、伝統的タイ文化の紹介も含んでいます。また仏教にも関心を示し、三蔵経の写本も逐一解説しているのです。さらには、「シャム語・ラテン語・フランス語・英語対訳辞典」を1854年に書きました。初めて書かれた外国語によるタイ語辞典です。


カトリックがタイで布教を始めるのと相前後して、アメリカのプロテスタント宣教師もタイに渡ってきます。彼らは大半が医者でした。ですので、タイ人は彼らを「クン・モー(お医者さん)」と呼びました。それに対してカトリックの神父は「クン・ポー(お坊さん)」と呼ばれました。プロテスタントの牧師が妻帯しており、タイ人にはどうしても「妻帯する僧侶」という概念は受け入れられなかったのです。一方カトリック神父は妻帯しないので、タイ人は彼らを「外国のお坊さん」と見なしたのです。モンクットはパルゴアだけでなく、こうしたプロテスタントの宣教師達とも広く交わり、西洋文明を吸収しますが、やはり彼らを僧侶とは見なしていなかったようです。彼らはあくまで西洋文明を教えてくれる教師として尊敬されたに止まったのです。


さて、1837年、モンクットは新しく建設された王立寺院ワット・ボーウォンニウェート (วัดบวรนิเวศวิหารราชวรวิหาร, Wat Pavaranivesh Vihara Ratchawarawihan)の住職に任命されます。この寺の名前、ちょっと長すぎるので、これからはワット・ボーウォンと省略して呼ぶことにします。これは非常に格式の高い寺で、三世王のモンクットに対する計らいでした。ワット・ボーウォンの住職として、彼はタイ仏教の改革に手を付けていきます。それまでタイ語なまりのパーリ語で読誦していた仏典を、本来の正しいパーリ語に直しました。例えばあの三帰依文の「私はブッダに帰依し奉ります」は従来「プッタン・サラナン・カッチャーミ」と発音されていましたが、彼はそれを「ブッダハン・サラーナン・ガハッチャーミ」に直したのです。戒律にも手を付けます。それまでタイの僧侶は右肩を露わにして三衣を着ていましたが、モンクットはモーン仏教の戒律に従い、両肩を覆う様に改めます。さらに伝統的な勤行に加え、キリスト教に習って在家信徒を対象にした説教を始めます。また当時タイで用いられていた三蔵経は本来の形とは大分違ってしまっていたのですが、モンクットは再三スリランカに使者を使わして、スリランカの経典を元にタイの三蔵経を本来の形に改めます。


モンクットとキリスト教


モンクットはこうして、一方でキリスト教神父や宣教師から西洋文明を吸収する一方、タイ仏教の改革に力を入れるのですが、彼がキリスト教に関心を示さなかったかというとそうではありません。パルゴア神父の日記に、こんなエピソードが出てきます。


あるとき、パルゴアがモンクットを訪ねると、モンクットは「あなたにお借りした宗教書ですが、ガラスケースに入れておいたのに、シロアリに食われてしまいました。しかし内容は全て私の頭の中に入っていますよ」と言ったそうです。そこでパルゴアが、「殿下はあの書物に書かれてあった天地創造についてはどうお考えですか」と質問すると、モンクットはたちどころにキリスト教の天地創造をそらで語ったというのです。そればかりか、モンクットはワット・ボーウォンの柱に、キリストの姿を描かせました。パルゴアが驚いて「何故仏教の寺にキリストの姿が描かれているのですか」と尋ねると、モンクットは平然として「尊敬しているからです」と答えたそうです。

モンクットは、英語はアメリカ人宣教師ジェス・カズウェルから学びました。モンクットの英語はやや難渋な文体で読みにくいのですが、彼はその英語の知識を活かして、後に王位に就いてからローマ法王やアメリカ大統領などとも直接書簡を交わします。日本が開国したときは権力者である天皇や将軍は英語が分からず、英語からオランダ語通事、それを解して日本語に、と言うやりとりが必要だったのですが、タイの場合は国で一番英語が出来る人が王様だったのです。逆に官僚達が英語を解さないので、外交文書は何でも自分で読み書きしなければならないと後にこぼしています。つまりモンクットはアンナが描いた様な、未開な蛮族の酋長の様な王とは全く違ったのでした。


宣教師達とタイの知識人

先ほど、フランス人神父パルゴアの話をしましたが、パルゴアの様な人はタイに来た宣教師の中ではむしろ例外でした。特にプロテスタント系の宣教師は、タイ人は未開な野蛮人であって、それは仏教などと言ういかがわしい邪教を信じているからだ、と言う人がほとんどだったのです。まあ、当時チャックリー王朝に反乱を起こしたラーンサーン国王チャオ・ヌアが捉えられてクルンテープに護送され、公衆の面前で凄絶な拷問を受けた後惨殺され、さらに遺体も陵辱されたことを覧れば、そう思いたくもなったでしょう。

一方タイの知識人は、そう言う宣教師達の態度に反感を覚えていました。モンクットと共に英語を学んだタイの高官は、宣教師とこんな問答をしています。

万物は神の被造物というのは事実か?
その通り。
膀胱に生じる結石もまた神の被造物か?
その通り。
それなら、病人の体内に生じた結石は神の意志であり、それを手術によって摘出するのは神に背く行為ではないのか?

宣教師は黙ってしまいました。

モンクットはどう考えていたでしょうか。ちょっと長くなりますが、彼がアメリカの友人に送った手紙を紹介します。

キリスト教などと言う宗教は、野蛮人と大して違わぬ古代ユダヤ人の迷信に過ぎない。キリスト教がヨーロッパに広まったのは、科学の知がヨーロッパを照らす以前のことであった。我々がイギリス人やアメリカ人と交際するのも、科学と芸術のためであって、野蛮な宗教に感激したからではない。我々は、科学に通じた人がしばしば聖書の内容を否定し、全く信じていないことを知っている。我々の国は、かのユダヤの宗教より遙かに立派な道徳と文明、信ずるに足る因果の法則を、遙か以前から持っている。あなた方の善意は有り難いが、私は、永遠の幸福を得る正しい道は、世界の宗教全てがそうである様に、法と善行、善心にあると信じている。

モンクットは、キリスト教の宣教師がタイに何をしに来たのか、明らかに分かっていました。何しろ隣のビルマがあっという間に滅ぼされたのですから。戦力では到底敵わぬ相手に対し、モンクットは欧米人が金科玉条とする合理主義をもって対抗しようとします。すなわち、野蛮な迷信としか思われなかったキリスト教の聖書の教えより、因果応報を説く仏教の方が、遙かに合理的であると主張したのです。しかし同時にモンクットは、タイの仏教に合理性にそぐわない要素があることも理解していました。例えば寺によく描かれる三界経(トライ・プーム)です。モンクットはそのような民間仏教にある非合理的な部分は、彼が理想とする合理的な仏教とは無縁のものであり、欧米人にも納得させられる合理的な仏教を推進しなければならないと考えていました。

タンマユット改革

モンクットは、堕落したタイ仏教を、彼が理想と仰ぐ本来の合理的な仏教に改革しなければならないと決心しました。そこで復古的仏教革新運動、タンマユットを開始したのです。タンマユットのタンマはダールマ(法)のタイ語読みです。ユットは結合、相応、と言う意味です。つまりブッダの説いたダールマを維持し実践しよう、と言うのがその精神でした。

そこで、タンマユットでは信仰に拠らずあくまで理性的にブッダの教えを理解しようとします。生老病死一切皆苦、八正道による苦からの解脱が強調されます。一切は神がお作りになった、等というキリスト教の主張は荒唐無稽であり、近代的合理精神に反しているというわけでした。

ちなみに、タイや仏教を因習に囚われた未開の蕃地やその宗教とみた英米のプロテスタント系宣教師と、先ほど紹介したカトリック神父パルゴアの態度は対称的でした。パルゴアはタイの文化、仏教、習慣を深く研究し、一般の欧米人が迷信の象徴と見なしたトライ・プームも詳しく研究し、そこに描かれた伝承、逸話などがどういう起源を持っているのか、インドや中国の文献と比較して調べようとしました。ですから、タイや仏教を迷信に囚われた未開人や邪教と決めつける欧米の宣教師らには反発したモンクットらタイの知識人も、パルゴアの説くキリスト教には真摯に耳を傾け、それを理解しようと努めました。

モンクットの西欧理解

さて、キリスト教は信じていなかったモンクットですが、欧米の動きには絶えず注視していました。欧米諸国の歴史、外交関係、国家統治の実態などについては、パルゴア神父のみならず、プロテスタントの宣教師などからも絶えず情報を得ていましたし、シンガポールの英字新聞を取り寄せて常に目を通していました。彼がどれほど欧米の実態を理解していたかについて、例のアンナレオノーウェンスに書き送った手紙を紹介しましょう。アンナはタイが奴隷制を敷いていることを強く批判しました。それに対し、モンクットはこのような書簡を返しています。

アンナ君。君は奴隷制がサヤームの大きな汚点だと言うが、サヤームで行われている奴隷制度は、多くの国で暗い炭鉱の奥で労働者として働かされている奴隷や、文明国と言われているヨーロッパ各国で女子供までこき使う奴隷制度とは全く別物なのだ。(中略)自由人と称する人が、「産業君主」や「工場王子」の意のままに操られ重労働に従事し、子供まで深夜まで働かされ、それでいてろくな給料ももらえず、惨めな小屋の一部屋に押し込められて暮らすことを強いられているが、これはどうなのだ。

まるでフリードリッヒ・エンゲルスの「イギリスにおける労働者階級の状況」を思わせる描写ですが、エンゲルスのこの本がドイツ語から英訳されたのは1887年ですから、1864年付けのモンクットのこの書簡はエンゲルスを読んで書いたものではありません。モンクットがイギリス労働者のこのような実態をどうして知り得たかは、全くの謎であります。

さて、こうしている内にも欧米列強の波はさらに強くタイを含むアジア諸国を揺るがし、イギリスがアヘン戦争で清国を下してからは、列強の姿勢はさらに強硬なものとなりました。タイに対しても、かつて結ばれたバーネイ条約では飽き足らず、全面開国を要求してきます。これに対してラーマ3世はあくまで消極的な態度を崩しませんでしたが、1851年、62歳で死去します。そして、ついにモンクットが27年にわたる僧院生活に別れを告げ、第4代王として即位することになるのです。

王としてのモンクット

華やかで盛大な即位式とは裏腹に、モンクット王の内面は不安に満ちていました。彼は書いています。

今や我が国は二方三方にわたり強大な外国に囲まれている。小国に過ぎない我が国は、この先どう振る舞えば良いだろう?仮に我が国に100艘の軍艦を作れるだけの金鉱があったとしても、我が国は戦うことは出来ない。なぜなら我が国はその軍艦や兵器を製造する能力がなく、これを外国から買わなければならないからである。それが自国に向けられると知れば、これらの大国は軍艦や武器を売ろうとはしないであろう。これから先我が国が考えるべきは、どうすれば口と心を持って我々を救うことが出来るか、その術を知ることであろう。

ちょっと仏教と離れますが、王となったモンクットは、様々な改革に手を付けます。1867年のパリ万博に参加したり、造幣局を設けコインの製造を始めたり、運河が主体であった首都クルンテープに馬車を走らせることが出来る大通りを建設したりしました。このとき彼が敷いた「ニューロード」はチャルンクルン通り(ถนนเจริญกรุงタノーン・チャルンクルーン)と名を変えて、今もクルンテープの主要な道路の1つになっています。また従来筆写して通達されていた命令を、「官報」として印刷配布することにしました。王の命令が間違いなく全国隅々まで行き渡る様にしたのです。そしてこのとき行われた改革の1つが、国民が王の姿を見ることを許したことでした。それまで王が外出するときは、民衆はひれ伏して王を覧てはならなかったのですが、モンクット王はその決まりを廃止したばかりか、度々国内を巡幸し、国民と直接ふれあう様に努めました。

対外的には、それまで暗黙の内に行われていた中国に対する朝貢貿易を廃止し、対等な交易を開始しました。そしてついに、1855年、イギリスとの間にバウリング条約が締結されます。それは英国領事の駐在や、在留英国人の治外法権を認めるなど、タイ側が大幅に譲歩したものでしたが、当時のイギリスとタイの力関係を考えれば致し方なかったでしょう。次いでフランス、アメリカとも通商条約を締結しました。フランスとの交渉にパルゴア神父が活躍したことは言うまでもありません。ついでですがパルゴア神父は、タイに初めて写真をもたらした人物でもあります。

モンクットは粘り強く近代化を進めます。例えば宮中の官吏はそれまで上半身裸だったのですが、彼らに服を着せました。また見慣れぬ西欧人を恐れる民衆に、彼ら「ファラン(欧米人、白人)」は我々と交易をし、商売をしに来たので、決して取って食われるわけではないから恐れる必要はない、と繰り返し説いています。一方で、タイの一夫多妻制を批判するアメリカ人宣教師達に対しては、Buddhist Championと言う筆名で宣教師達の雑誌に寄稿を寄せ、反論を試みたりしています。

指摘しておかなければならないのは、モンクット王は宗教については全く寛容でした。仏教の寺でキリスト教の説教をさせたことすらあります。ある仏僧がキリスト教に改宗しようとしたとき、彼は「仏教は哲学であり、キリスト教は宗教だから、クリスチャンになることは全く差し支えない」と言ってそれを許可しました。彼は「全ての宗教は殺さないこと、盗まないこと、姦淫を犯さないこと、嘘をつかないこと、飲酒を避けること、怒りを抑えること、誠実であること、寛容であることなど、守るべき共通の徳目をもっており、そのような価値観を共有できる限り、どんな宗教を国民が信じようと構わない」、と考えていました。しかし同時に彼は、自分は仏教徒であって、例え宣教師達が全てのタイ人を改宗したとしても、自分は洗礼を受けることはないであろうと語っています。

彼はアメリカ人宣教師達に依頼して、宮廷の女性達の教育も試みましたが、これはあまり上手く行きませんでした。彼女たちにとって英語の学習はあまりにも負担であり、例えば宣教師が一夫多妻はおかしいと言っても、彼女たちは一体何がおかしいのか分からなかったようです。さらに、跡継ぎになる長男チュラーロンコンに英国式教育を受けさせました。その為に招聘されたのがアンナ・レオノーウェンスだったと言うわけです。

モンクット王は様々な西洋科学の知識を身につけていましたが、特に天文学については卓越していました。またタイの調査を行いたいと申し出た英国領事に、調査の許可と引き換えに、タイの精密な地図を献上する様依頼しています。当時タイの北部には、広い砂漠が拡がっていると信じられていたのです。

しかしこの科学知識、特に天文学にのめり込んだことが、皮肉にも彼の命を奪いました。彼は1868年8月にタイ国内で皆既日食が起こるであろうことを自ら予測し、現プラチュアップキリカーン県ワーコー村への観察旅行を敢行します。チュラーロンコーン王子他王族高官、さらには外国高官らも従えジャングルを切り開いて設けられた観測地に陣取った彼の前で、彼の予想通り、1868年8月18日午前11時過ぎに日食が起きました。しかし、そこは焦熱のジャングルのまっただ中でした。モンクット本人も、チュラーロンコーン王子も、またその旅行に参加した多くの人がマラリヤに掛かり、王はついに死の床につきます。生涯仏教を信じ通した彼にふさわしく、「死は全ての生物がたどるべき道である」と遺言に述べて、1868年10月1日、王は崩御しました。しかし彼の内心は、遺言ほど穏やかでなかったかもしれません。後を継ぐべき長男のチュラーロンコン王子は15歳であり、彼もまたマラリアに感染して生死の境をさまよっていたからです。ちなみにパルゴア神父は王よりも早く、1862年にクルンテープで57歳の生涯を閉じています。モンクット王とパルゴア神父との交友は、28年の長きにわたったのです。

さて、これでいったんこの話を終わりにしたいと思います。本当は現在のタイ仏教についても色々書きたいことはあるのですが、とても体力が続きません。それはまた後の機会に。


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