般若心経のエッセンス
般若心経は、書かれた経緯は不明ですが、観世音菩薩(観音菩薩)を讃えているので、明らかに大乗経典です。大本と小本がありますが、小本もほとんどは麗々しく観音菩薩の功徳を述べているだけで、この経典の本質は次の三行に込められています。
1.ルーパム シューニヤター。シューニヤタイヴァ ルーパム
2.ルーパム ナ プリターク シューニヤター、シューニヤターヤ ナ プリターク ルーパム
3.ヤードゥ ルーパム サ シューニヤター、 ヤー シューニヤター タードゥ ルーパム
中村元師の逐語訳はこうです。
1.この世においては、物質的現象には実体がないのであり、実体がないからこそ物質的現象であり得るのである。
2.実体がないと言っても、それは物質的現象を離れてはいない。また物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのでは無い。
3.およそ物質的現象というものは、全て実体がないことである。およそ実体がないということは、物質的現象なのである。
逐語訳はこの通りですが、おそらく解説が必要でしょう。
ルーパムというのは、物質的現象全てのことです。あなたも私も物質ですから一種のルーパムです。シューニヤターというのは、サンスクリット語で0を意味します。インドヨーロッパ語族という言葉があるように、サンスクリット語はアーリア人の言語なので、今のヨーロッパ言語と起源は一緒です。シューニヤター、ズィアロウ、どこか似ているでしょう?0のことです。
ここで中村元先生は、これを「実体が無いもの」と訳しています。実体がないというのは、時間的にも空間的にも、限定出来ないという意味です。
例えばこの駄文を読み始めた時とたった今のあなたは、同じあなたですか?一定の時間が経っていますから、僅かとは言え老いているはずですし、変化しています。時間的に「同じあなた」ではありません。
同様に、空間的にも、この間あなたの消化管の中では夕食が忙しく消化されているはずです。あなたが晩ご飯として食べたものは、元々あなたとは別個のものでした。あなたはあなたで晩飯は晩飯であったはずです。ところが今、その晩飯はあなたの消化管の中で消化吸収されて、「あなた」になろうとしています。このように、あなたとあなたで無いもの、自己と非自己というのは、区別が付けがたいのです。これが「実体が無いもの」です。
あなたという物質的現象は確かに存在しているが、それは刻一刻と変化してしまうし、自己と非自己は常に入れ替わっている。その意味で「およそ物質的現象には実体がない」のです。これが一節目の意味です。
では2節目
2.ルーパム ナ プリターク シューニヤター、シューニヤターヤ ナ プリターク ルーパム
はどういう意味でしょうか。 中村先生の直訳では
実体がないと言っても、それは物質的現象を離れてはいない。また物質的現象は、実体がないことを離れて物質的現象であるのでは無い。
でした。
第一節で説かれたように、およそ物質的現象には実体がないのでした。それは刻一刻と変化してしまうし、自己と非自己も厳密には区別しがたいという事が明らかになりました。第二節はその裏返しです。
その様に、絶えず変化し、外界と自己とを区別出来ないあり方で、しかしあなたという物質的存在は確固として存在しているという事です。絶えず移り変わり、また外界と絶えず交流を持ちながらも、「あなた」という現象は実在しているのです。あなたが私になることは無く、あなたが一個のパンになることもありません。あなたはあなたなのです。あなたという物質的現象は、確固として存在している、それが第二節です。
第三節.
ヤードゥ ルーパム サ シューニヤター、 ヤー シューニヤター タードゥ ルーパム
は、玄奘法師は省略してしまいました。基本的に第二節と言っていることは変わらないと考えたのでしょう。中国語の般若心経に、この第三節はありません。
しかし第三節は、文字にすれば第二節とほとんど同じでも、理解の仕方が違います。言っていることは同じです。絶えず変化し、外界と自己とを区別出来ないあり方で、しかしあなたという物質的存在は確固として存在しているという事です。しかしもし第三節を言葉にするなら、
「そうだ、おれは生きている」でしょうか。
第一節で明らかにされたように、不変な、確固たる自己というものは存在しない。それは常に変化し、外界と交わりながら存在しているので、「時間軸を超えて外界と完全に切り離された己を示してみよ」と言われたら誰も示せません。
しかし、第一節、第二節を踏まえて
「やっぱりそれでも俺という存在はあるのだ。俺は生きているのだ」と言っているのが第三節です。
己というのは物質的現象であるから、時間空間的に外界と切り離し、固定されたものとしては存在していない。しかしそもそも物質的現象のあり方というものは皆その様なのである。そう言うものとして、己は間違いなく存在していると悟るのが第三節です。心の底から納得する境地です。三蔵法師はこれを略すべきではありませんでした。
これが般若心経のエッセンスです。