悟りと空海とカバラと密蔵と私。
シン・エヴァンゲリオン。
謎の見方をすれば、
シンは、ヘブライ語の
父と母と子の三位一体を表す文字
かつ、シンは、
全能の神のエルシャダイを
意味したりもする
【悟りと空海とカバラと密蔵と私。】
これまでのスピリチュアル。
西洋は、宇宙、あらゆるものを
光の巨人 アダムカドモンとして見たて、
東洋は、そんなものがない
絶対無の拡がりと安寧を描いたのかもしれない。
空海的な密教は、そして、
遍在的な存在としての大日如来を描き、
それと一体化しつつ行う
行(ぎょう)を説いたのかもしれない。
仏教的な流れの中では、
永遠との合一が目指され、
その中での手法がとられたのかもしれない。
空海的な密教で、転換点というか
ダイナミックな横っ飛びが行われ、
個が遍在(マンダラ)を模す術(すべ)
があるのなら、実在を遍在として取り、
技を行われたと思う。
知って、行う。
解って、操る。(流れを)
という、
おそらくの空海における
密教のなかの密蔵のスケールの大きさと
思われるものは、
理解という解する領域を
飛んでいる、飛んでいたと
言えるのかもしれない。
個は、遍在と縁を持つが
強烈に個人を立脚する
「無」の局面において、
さまざまな曲解が存在し、
たくさんの人たちを
閉じ込めてしまった問題については、
その無を
人間的なコンテンツの超越として
仮想の悟りと見たて、
それと合一させ(自分を無に重ねようとする)
無から全てを説明しようという
論理体系の中に
自己を閉じ込めてしまった。
無の主張。
なので、禅のエキスパートたちは、
その
『「無」と主張し、悟ったと主張し、
注目を集め、悦に浸る自己。』
からの追い出しを図ったのだと思う。
なんでも、空間論から捕まえて
近似したとしても、
否定から迫るため
空海が言うように
真実の義を知らない
偏った見方に
おちいってしまう。
空海のなかで、
あらゆる無を迫る動きも、
非から迫る動きも、
否定から迫る
極端な見方として
弾指されてるのは
見事な指摘だと思う。
そもそもブッダが
悟る前に、最初に
「四つの無」を習得しても
これちゃうやんってなったのが
仏教の智慧だと思う。
遍在と広がりと、
極小の点と凝固に関しては、
どこがどうとか
どれがどうとか
そういったものを越えているし
ある幅や、見方を持ってした
思想というスケールで切り取っても
本人の納得するところが
本人的には真理になってしまう
かといって
無でもないし
あのときの遍在を
なぜしたかわからないし
不思議な話でもないし
なんでかわからないというのが
ほんとうなところで。
かといって、それは
ある論述によって納得させた
自分によって感得されたものでもなく
というか、遍在として在った
というべきなのかなんなのかわからない
超えているものがあるとしたら
個の思考という
ある枠組みを持ったものでは
とらえられない
無や有がなんたるかという思想でも
とらえられない
直接、超えている ことしかできないなら
その瞬間、個人の枠組みを超えている
連続同時(遍在)というのは、
時間と空間の中の個人を実感するスケール(人)を楽しんでいる自分たちからすれば、
わけわかんない遠くの概念なわけで
でも、なんの因果か
それを超越するあらゆる浸透そのものの
在、非在、有、無、はじまり、おわり
すべてに直接に連続同時に
貫通したときに
世界感は、どういうものを
もって(こさえて)、
ふたたび個人に戻るというのだろう。
あらゆるものではない
絶対個としての価値観に
端(たん)を発する世界感によって
形成されてきたもの
と、絶対個から
遍在
(有的遍在、無的遍在、そのあいだの遍在)
を両方もつ世界感を持つ場合の
世界感のちがいとは。
個人の世界感は、
世界からの入力によって
それぞれ形成されているのかも
しれないけれど、
絶対的な個人としてみれば、
その戦略は何で、
その人生観は、
何を「是(ぜ)」としてきたんだろう?
絶対的な個人かつ
遍在との合一をすませた存在としてみれば
それらの人生観をどう見たのだろう?
その世界観への
挑戦というか
離れて見守るものが
仏教のなかで強烈に生まれた気がするのは、
ブッダが
真実の経験をしたからだと思う
それは、理に適っているのは、
世界的自然形成が
遍在的なものが向かう自然(タオ)の
動きと合わせているものであり
それは、局所的な
社会的「是」を越えている
老子があれだけ言った
社会形成としての
タオ
つまり、万物を生み出す
無(あらゆるものを生み出し)
有(あらゆるものを死滅させる)
を司る
タオの働きを捉えられないのは、
局所的な世界観である
人間の現在の処世術に合わせてしまう
からだと思う。
ある枠組みを持ったものを
私たちだとすれば、
枠組みを超えたもの
そして、
枠組みを使うこと
についてのことは、
忘れさられていて
赤ん坊の時には持たなかった認識
「現在の私としている
身につけた誰かの見方」
が私だと(いまの)私は言っている
赤ん坊に聞いても、
私だとは言わず
??となるかもしれない
それをふまえての
老子道徳経があるというのなら、
当時の儒学を否定して
老子が伝えたかったものは
なんかのか?
それは、越えている私たちが
つくりだすことは、
自然の理に適い、育めるもの
だったのだということかもしれない
まるで、この宇宙が
すべてを生成する
土壌になっているように
生における
ふいごのようだと
表現した老子の凄さと
それが「思想」という
枠組みを超えたものを
直接放っている点において
歴史的な巨大な芸術かのようだ
いのちの流れと
悠久の時を過ごした老人の
語る感想本が「老子」の本かもしれない
優しく、理と理に適い、
養っている。
窮屈な枠組みを越えて
拡がるこの宇宙の遍在さと
ダイナミックさ
それと同時に
極小の石にも響き渡る
ミクロさ
ダイナミックと
ミクロに縦横無尽に走るもの。
私たちが在る、
この点が、
その絨毯(じゅうたん)のなかにあり、
より良さを願うとき
創造の発露は、
何に寄り添い、促すのだろう。
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