歌集 『新しい生活様式』服部 崇/著 を読む
著者の服部氏はパリ、シンガポール、(しばし京都の大学で教鞭をとられ、東京に戻られた後、いまは海外)等、主に海外で勤務される官僚である。歌集にはその勤務地での仕事が写実的に歌われる。
Ⅱ章のクメール・ルージュの虐殺という歴史を踏まえ、カンボジアをうたった連、そして著者が仕事としてかかわる国家間のシビアな交渉の現場をうたった連が圧巻である。それらの歌は形而上的な言葉ではなく自身の身のまわりの出来事を通じて歌われることにより強いリアリティを持つ。
そうしてこの歌集は、それだけではなく、仕事から離れた作者の心象を(時には相聞と思われる歌)までも同様に身のまわりの気づき、見たもの聞いたものを題材に歌われている。
歌集に扱われる題材の振幅が大きく、「これは相聞?」と思いつつも読むとき戸惑ったりすることもあった。
「新しい生活様式」という題名となった連は歌集の少し後半に出てくる。
コロナ禍以降の生活様式の変わり方を歌う連でもあるが、様々な国へ赴任しその地で生活する都度の生活そのものが「新しい生活様式」であるとするなら、コロナ禍のこの国というのもまた別の国かとも読めた。
以下に何首か好きな歌をあげる。
何気ない景であるが、だからこそ家族の日常が伝わる。
「駅前広場のテントから煙」が、言葉にすれば謎めいて煙とともに魔法のよう家族が突如現れるように読めて面白い。
「インドネシアの議長」とあるからなにかの国際会議であろう。
その声が「ドビューンドドビューン」としか聞こえないのは大変な状況、
会議の中で孤立無援のコミュニケーションが取れない状況である。
「ドビューンドドビューン」というオノマトぺが無意味に滑稽だからこそ
絶望的な状況を強く醸す。
木の寄りかかり休むというごく普通の景をまるで箴言のように歌う
背景にその連に歌われる不調に終わった会議の状況を受けている。
日常(?)の景を切り取って歌にすれば、とても不思議な歌になる。
門番がひとりひとりのてのひらにクリームを塗るとは何か。それも何も告げずに。何かのイニシエーションなのかと、想像が膨らむ。歌の向こうにファンタジーな想像が広がっていく。2句目3句目「ひとりひとりのてのひらに」とひらがなにひらいているところが空想を補強する。
自分は為すべき必然を為せたのか為せなかったのか
自分の影のように黒き鳥に向けて問いかけているようである
この歌、実はしっかりと歌意を読めていない。が、なんだかとても好きなのだ。「クリムト」と「世紀末」、そこに「君が過ごした」があり、そこに作者の心象が入ってくる。今は別れた恋人の部屋のようにも思ったのだが、
「今日もまた入つてしまふ」とある。隠された言葉や背景に読みが「世紀末の部屋」に収斂される。
行分け詩の一小節のよう。「斑猫」がよい。
この歌だけであれば新しい生活様式に希望を読むこともできるのであるが、
同じ連に
とあり、コロナ禍を歌っている。各国の生活もそれぞれ新しい生活様式があるようにコロナ以降のこの国の生活様式もコロナ以前とは別の国のように新しい生活様式としてある。
「ここから先は立ち入らないでください」に従うのではなく避けながら行く。それはすでに先に立ち入っていることである。作者自身の心の中の言葉のよう。
この歌集にはときどきこういったチェンジアップのような歌があって、緩急がよい。前後の歌からおそらく京都鴨川の飛び石のところのように思う。
(まあ自転車で渡るのは無理である)
「やがて」とあるからしばらくは、考えてみたのであろう。
近くには橋があるのだが。その心情のずれ具合が「まんまん」に込められている。
先の戦争で戦略、戦術もあったともいえないような無謀でなし崩し的な日本軍の戦いの地をならべ、最後に「東京オリンピック」と来る。
作者のリアルな職業が読みに重なりこの歌は批評性を増す。
そう思うとき文学は(そして特に短歌という詩型の歴史は)作者存在と作品の間に緊密な関係性を持つのだということを考えさせる。