歌集『ヘクタール』大森静佳/著 を読む

 以前読んだときにたくさん付箋を貼った。しばらくそのままで、今回、ふたたび読んだ。すると、前とは違った箇所に付箋が貼られた。前回、読んだときに貼った箇所からはずしたものもある。歌集名になったような代表歌はいくつもの読みや評がすでに出ているであろう。
 なので、今回は、付箋を貼った歌の中でも鑑賞に選ばれにくいであろう歌もいくつか読んで10首読むことにした。といいつつ、この歌集、様々な表現がちりばめられており、読み方がよくわからない歌もあった。にもかかわらず選んだのは意味ではなく言葉に惹かれたのである。しかし、鑑賞文を書くからには読みをかかなければならない。というところで、わたしの受け取った感覚と文章の間には差異があるかもしれない。そこはご容赦いただき、そしてまた「こういう読みもある」ということをご教授いただけたら幸いである。

はなびらは光の領土とおもいつつ奪いたし目を閉じれば奪う

p8

 「はなびらは光の領土」というフレーズだけでひとつの詩の完成がある。そして「おもいつつ」とあるから、奪うのは作中のわたしである。わたしはその光の領土である「はなびら」を奪いたいと欲望する。しかし、奪いたいから目を閉じるのではなく、「目を閉じれば奪う」というところに表現の倒錯がある。目を閉じれば奪える、ではなく意思を追い越すように目は閉じられている。凝視する目のまぶたが閉じられる瞬間である。身体の行為が欲望を支える。闇の中、はなびらは光の領土ではなくなることでわたしのものになる。しかし、それはすでにはなびらではなくなっているともいえる。

橋はみな死んでいるのにくるぶしがその死をよろこびながら渡りぬ

p21

 橋は生きていれば動き出しどこかに行ってしまうかもしれない。だから、そこから動くことなく、じっとしてくれているということの所有欲のような喜びなのだろうか。そして、それは作中のわたしの心とは別に”くるぶし”が喜んでいるのである。
 上句と下句で作中のわたしはひとりであるが、心と身体(くるぶし)が
分かれている。心は「死」に倫理的な反応をするが「くるぶし」=身体は
死に対してとても「くるぶし」(自己)中心的な反応をしている。そこに歌としての事の捉えがあるように思う。

カマドウマは古墳にえる虫なれどわたしのなかには一匹もあらず 

p65

 このうたは「なれど」という反語表現によって、古墳とわたしが表面的な比喩ではなく、存在の重なりとして読まれる。
 「古墳」は古代の墓である。死者の住む暗く静かな場所である。わたし自身がそういう存在であることを願う。しかし、わたしのなかには古墳にいるはずのカマドウマがいない。それは、わたしが古墳にはなりきれていないということである。そのことを不本意と思う心が「もあらず」に含まれている。

小さいひと、と自分の娘を呼びながら睫毛が鹿のようなともだち

p73

 作者はともだちを観察している。「ともだち」の話す言葉を聞く、息遣いに近いところで。「ともだち」の目をじっと見ている。睫毛の長さを思うくらいに。「小さいひと、」と読点があるのはともだちの娘が今そこにいないからであろう。ともだちと作者の近さが感じられる。しかし、「自分の娘」という表現がべったりと同化する空気感を排除している。上句と下句をつなげるのは「呼びながら」という並列的な表記である。あくまで観察が主体のうたとしてある。
 ともだちへのわたしの感情をどう読むかは読者に渡されている。

わたしはもう夕焼けだから、きみの血が世界へ流れでたって平気

p111

 初句六音で「わたしはもう」と不可逆的なわたしを宣言する。「わたしはもう夕焼けだから」と「きみの血が世界へ流れでたって平気」という強固な決意と受け止め方をシンプルに読点でつなぐ。わたし=夕焼け=世界と読んだ。その場合、「きみの血」が流れるのはわたしという夕焼けなのである。だからわたしは平気なのだ。が、きみは平気ではない。と思うととてもエゴイスティックかつある種アナーキな歌に読んだ。
 もうひとつの読みは私の中の流れるだけなのだから”きみは平気だよ”という読み。ただ、これはとても慈母的なのでそうは読みたくはないのは個人的な好みである。

逢いたさをひとつの思想へひきあげて鋭く眠る木乃伊少女は

p124 

 言葉と意味が結句の「木乃伊少女」という存在に集まっていく。「鋭く眠る」という表現に長い年月の深い思いを木乃伊少女に感じ、見つめる作者のわたしが、読者に想起される。ちなみに木乃伊ではないがこの歌を読んだとき、マルケスの「愛その他の悪霊について」を思った。

青空へわたしはろくろっくび伸びてくちづけしたし野鳥のきみと

p128

 初句の「青空へ」でイメージをひろげ、そこへ「ろくろっくび」というこの世ならざる首が「ろくろっくび」という音とともに伸びていく。それがわたし。別のうたでは「くるぶし」であったがここでは首が現実から放たれて自由に伸びていく。くちづけしたいのは野鳥であり、それを「きみ」と呼ぶ。擬人化のようであるが、ここに歌われているのは「ろくろっくび」だからそれはすでに「人」ではないのである。

体内にひとつだけ吊るすシャンデリア砕いてもいいし砕けてもいい 

p157

 うたの中心にシャンデリアが置かれている。
「ひとつだけ吊るす」とあるからこれは作中のわたしが吊るしたものであろう。それは砕いても、砕けてもいいという。ただし、砕かれていいとは歌われていない。自分の意思、自分の身体のことだから。まるでそのシャンデリアは砕くため、あるいは砕けるために吊られているようである。そのときわたしの目に見えて耳に聞こえてくるものをわたしは感じたい。
 このうたを読むとき読者も自らの体内にシャンデリアをひとつ吊るすように思う。

蕁麻疹ひろがる 地図のようになる 何度もあなたを辿ろうとする

p198

 3句目までは実景に読める。蕁麻疹がひろがって、よく見たら地図のようだと気づくという。
 が、4句目からが謎である。その地図にあなたの辿った道が記されているのだろうか。それともその蕁麻疹の地図こそがあなたなのであろうか。何度も辿ろうとするのである。そもそも蕁麻疹はどこに出ているのか。作者の身体?腕や足?もしかすると蕁麻疹のようにひろがるあなたがたどった道か?答えはない。ただ、その赤みかゆみ痛みが生理的感覚としてあなたへの求めとしてつながっているようだ。

ばらばらにふたつの瘤は揺れており砂から駱駝を立ちあがらせて

p200

 フタコブラクダはずいぶん昔に動物園で見たことがあるような気がする。
中央アジアの荒地に生息する生き物。ということはこの歌にはあまり関係がないようだ。砂の中に埋もれるように座っていた駱駝がのっそりと立ち上がるとき、そのふたつの瘤がばらばらに揺れる姿をイメージすればそれは、
すでにフタコブラクラの姿をした何かになっている。その何かを立ち上がらせるのは作中のわたしである。「揺れており」と「立ちあがらせて」の言いさしで歌がつづくとき読み手の中でラクダの瘤はしばし揺れたままである。

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