現代落語家は1円札を50銭で売る? ~もう通じないくすぐりたち~

天狗刺しとい落語の演目がありますね。あのなかに「1円を50銭(だったかな?)で売ってくれるところがあったら買いに行く。それを1円で売って大もうけや!」というボケがあります。しかもこのインターネットのご時世ごく身近に。

 FXって聞いたことありますか?為替取引のことです。たとえば1ドルはいくらですか?ときかれてあなた答えるときなんて言います?「いまだったらいくらいくらくらい」と言いますよね。それは為替が変動相場制だから。これって1ドル札をきょうは156円とか、明日は160円とかで売っているって事でしょう?つまり1円札を50銭で売っているって噺じゃないですか。

 わたしはあのボケを昭和の名人たちの音源で聞くとしみじみ昭和って良いなぁと思いますが、それと同時に、現在のお客さんはそこでどういう感覚で笑えと言われているのだろうと考え込んでしまいます。あれ、昭和の時代には為替がなかったかというとそんなこともないわけで、そもそも為替というのは外国為替といちいち言わないと外貨取引のことにはなりません。では普通に為替と言った場合は???
 その答えは江戸時代以前に遡ります。金貨、銀貨、銅貨が流通していた江戸時代にはそれぞれの貨幣価値が変動していたのです。そしてそういう取引が大いに行われていたのが大阪。米相場も、先物取引もありました。ただ、かつては堂島あたりの相場師しか、そうした売買には手を出すことがなかったわけで、一般庶民は知ってか知らずかあのようなボケた会話をしていたんだろうなと思います。

 かつての落語は学のない庶民の馬鹿馬鹿しい話をお笑いと行っていたわけですけど、それを当たり前のようにいまも話し続けている困った古典派大杉です。いまの落語ファンって、そこそこの会社に勤めて経済のイロハは学んだ人とも多いわけで、それを考えず口伝の儘の古典落語では詰まりません。
 しかしながら、あそこで脱線してFXの話を始めたらそっちのがおもしろくなって天狗刺しが成立しません。かといって通じない話になったんだからと安易にカットするのも感心しません。じゃぁどうしろっていうのは「それを考えるのが落語家の務めだろう?それでお足をかせいでるんじゃないのかい?」って処ですけど。

 こういうのの逆の話も結構あって、たとえば藪医者を描写するのに
「先生、2階から落っこっちゃったんだ。診てくれよ?」
「手遅れじゃなぁ」「たったいま落ちたんだよ!じゃぁいってぇいつなら間に合ったんだよ?」「落ちる前だと良かった」

 ねぇ、これ、志ん朝師匠や小三治師匠の時代には違和感ありまくりなんですよ。江戸時代はまさにこれで医術は漢方。薬を飲ませて経過を見るのが治療だったわけです。藪医者でなくても外傷性の患者は受傷した段階で手遅れ。頭蓋骨骨折なんぞは蘭方の名医でも助けようもない。世の中には藪でも名医でも助けようがない場合も多いわけで、それでどうしてここで笑えるのか?って結構考え込んじゃってました。

 ところが明治以降、とくに平成のあたりには当たり前に外科や救急医療が発展し、ヘタすると現場で手術して一時処置を施してヘリコプターで病院に運んでくるなんてのもあります。そうするとはじめて藪医者にかかって死んじゃうって話が現実味を帯びる。そもそも医は仁術なりなどといっていたのは昔のことでいまは「医は技術なり。」重要な症例はみんな論文にして世界中の医者がどうすれば直るって技術を共有しています。まれにホンモノの藪医者がいると病院が訴えられるはなしになるんで、あのくすぐりは「笑い事ではないけど」「ホントの話」になっちゃったんです。

 むかし、小松左京さんが友だちと飲みながら「何でも実現しちゃうからそのうちSF作家はネタが無くなるぞ」って話していたそうですがいまの落語家さんたちはどうなんですかね。

 いまではみえみえの「うそ」をほんとのように聞かせる、引き込んでしまうって言う落語家さんの時代がおわってしまって「古典芸能としての正しい落語」ばかりになってしまいました。こんなへそ曲がりのわたしを納得して笑かしてくれる落語家さんはでてこられるのでしょうか。
 「馬鹿じゃ落語家はつとまりません。ほんとうは賢いんだけどそちらからみて馬鹿みたいにみせるっていうのが落語」と言う言葉を思い出しました。

まぁ、誰に読ませるわけでもない備忘録みたいなものですからお平らに。ご寛恕下されぃ。

 


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