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【FM店主日記Day26】「乱読のセレンディピティ」

乱読のセレンディピティ」という本を読んだ。

これは2020年に亡くなった「知の巨人」と称される外山滋比古先生が2016年に発表した本だ。彼の書著である「思考の整理術」はオーストラリアで車生活をしている時に読んだ。2011年のことだ。「見つめる鍋は煮えない」という言葉を読みながらキャンプ場でお湯を沸かそうとしていたことを今でも記憶している。エアーズロックを目指して車を走らせていた時で、乾いた赤土の大地が地平線まで続いていて直射日光が眩しすぎて暑すぎて僕はこれでもかというほど日焼けしていて地肌が常にジリジリしていて少なくとも数日は誰ともまともに会話していなくて孤独だった。実際、見つめる鍋は煮えなかった。

2011年当時にオーストラリアのどこかで撮影

乱読とは文字通り、素早く風のように本を読むことだ。そして、自分の専門分野などに捉われることなく、いろんなジャンルの本を広く浅く、そして速く読むことであり、それによって得られるもの=セレンディピティがある、というのがこの本のテーマになっている。

辞書を見ると、セレンディピティ(serendipity)思いがけないことを発見する能力。とくに科学分野で失敗が思わぬ大発見につながったときに使われる。セレンディピティ[おとぎ話 The Three Princess of Serendipの主人公がこの能力をもっていることから。イギリスの作家H・ウォルポールの造語(大辞林)とある。ていねいな説明である。

この後半の部分をふくらませるとこうなる。1758年、文人、作家のホレス・ウォルポールは友人、マンにあてた手紙の中で、偶然思いがけない発見のことをセレンディピティと命名した。セレンディップの三王子にちなむものである…と書いた。

「セレンディップの三人の王子」というおとぎ話が、そのころイギリスで流行していた。三王子はおもしろい才能(?)をもっていた。たえずものを見失う。それをさがすのだが、さがすものは出てこなくて、思いもかけぬものが飛び出してくるのである。それが一度や二度ではなく、何度も何度もおこった、という話である。

この探すものはでてこないのに、思いもかけなかったものが出てくる不思議に目をつけたところが手柄である。

セレンディップというのは、のちのセイロンのことであり、いまはスリランカと呼ばれる国のこと。

乱読のセレンディピティ P92-93

本が貴重だった頃は一冊の本を舐めるように何度も繰り返して読むことが美徳であり、それこそが学習だと思われていた節があるが、一生読書だけ続けていてもとても読み終われないほどの本がある現在ではとにかくたくさんの本を素早く読み、一つずつの本を完結したものとして読むのではなく、たくさんの本を読むことで浮かび上がってくる残像のようなものを汲み取る方が理にかなっている、と外山先生は説く。

この本に書かれているのは学問を深める方法でなく、なんとなく輪郭が掴めそうだと感じている概念やアイデアをより具体的にするための方法であり、どちらかというとゼロイチの部分に効果があるような気がする。

とにかくたくさんのインプットを行い、そしてインプットした情報を全て活かそうとするのではなく、端からどんどん忘却していく。この忘却のプロセスが想像以上に大事で、全てのことを記憶しているようでは脳がメタボ状態に陥ってしまいがちだ。体のメタボリックシンドロームは体の循環がうまくいっていない状態で不要な贅肉が体に溜まっていっているわけなので、長期的には不健康な体が出来上がってしまうのだけれど、脳にも全く同じようなことが起こる、のではないか、という話や、本に対する評価も今の読者によるものと30年後の読者によるものは全く異なる評価になる可能性もあるわけなので、今の読者と未来の読者は別のものとして考えるべきである、という話など。実際に「思考の整理術」の本は発売されてから25年後に急にまた売れ出したりしたらしい。

面白いとか役にたつとか、深いとかくだらないとか、全ての評価は一過性のものでしかないし、書いた文章の一片だけでも読んだ人の脳裏に残っていればそれは書いた人の勝利だし、文章と書くのはそういう何十年後かに誰かの感情をほんのわずかだけでも起伏させる可能性を持つ種子をばらまくような行為に他ならないし、無駄なことや役に立たないことを考えるのは役に立つことを考えるよりもはるかに創造性が高い。そしてやっぱり見つめる鍋は煮えないし、もらった薬は効かないものだ。

フェルマータ店主 KAORU


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