自民党結成–––「自主独立」をめざして
※本記事は、一応連載するつもりです(週に一度ぐらい)。反応が良ければ、書籍になるかもしれません。以下、「だ、である調」で書き進めます。編集者の手を通したものではないので、多少の間違いはお許しください。
令和二(二〇二〇)年九月十六日、通算、連続ともに我が国憲政史上最長の在職日数を誇った安倍晋三内閣は総辞職した。後を継いだのは、第二次安倍政権下で長く官房長官をつとめた菅義偉である。
菅は第九十九代総理大臣であると同時に、第二十六代自由民主党総裁でもある。自民党が安定的な多数を誇り、公明党との連立によって政権を担っている我が国においては、「自民党総裁になる」ということは、必然的に「総理大臣になる」ということに他ならない。
もちろん、総理と総裁を分離することは可能であるし、自民党が野党であれば総裁になってもそれは一政党のトップというに過ぎない。
しかし事実として、戦後ほとんどの期間、与党として政権を担ったのは自民党であった。総理と総裁が分離されることもなかったので、「自民党総裁になる」とは「総理になる」ことを指していたと言っていいだろう。
昭和三十(一九五五)年五月の結党から六十五年あまりが経ち、様々な失敗や腐敗を露呈しながらも、自民党は与党として戦後日本を率い続けた。その間、国民は二度ほど自民党のやり方に「ノー」を突きつけ、野に降ったこともあった。
それでも自民党は復活し、さらに強力になって今もまだ政権の座にある。特に、第二次安倍政権は、安倍本人が一度政治家としてトップに立ちながら辛酸を舐め、自民党が混迷の後に野に下るきっかけをつくっただけに、二度目の政権がこれほど長く続くと思う人は少なかっただろう。安倍の復活は、自民党がさらに強力な政党となって政権を奪還したことの象徴ともいえるだろう。
安倍晋三という人物は、自民党の中でもサラブレッドの血筋といえる。彼の母方の祖父、岸信介元首相は自民党結党時の重要メンバーの一人であり、総理となってからは「日米安全保障条約改定」とそれに伴う反対運動において外すことのできない名前となっている。自民党のみならず、我が国の戦後史の中で必ず言及される人物の一人と言ってもいいだろう。
そして、安倍の後を継いた菅義偉は、これもまた「自民党らしい」政治家と言える。安倍が三代目として祖父や父の遺産をうまく引き継いだ世襲型の典型ならば、菅は雪深い東北から上京し、苦学しながら地方議会議員秘書を振り出しについに権力の頂点まで上り詰めた、立身出世型の一人と言える。
「明治以来の」という言い方が許されるならば、岸信介は長州、つまり山口県という「近代日本の勝者」の立場であり、孫の安倍も名前の一字を高杉晋作から取るという、「明治維新」の色を濃厚に受け継いだ。
一方で、菅もまた封建制がなくなり、少なくとも建前上は実力次第でいくらでも上に上がれる明治以降の日本で「地方青年が上京して出世する」という「夢物語」の体現者である。「世襲」と「立身」の一見相反する生い立ちをもった人間を包み込み、それぞれに活躍の場を与える自民党は、その器の大きさで様々な人材を取り込み、政権を担う信頼を勝ち得てきた。
振り返ってみると、自民党とは「自由党」と「民主党」という二つの政党が合併することで結成された。一方で、「民主党」は当初吉田茂率いる「自由党」から分裂したのであり、見方によっては「元の鞘に戻っただけ」とも言える。
だが一度分裂し、もう一度一つになった政党は旧「自由党」ではなく、「自由民主党」となって戦後政治史に歴史的な一歩を記した。それから現在まで、紆余曲折ありつつも、いまだに日本を動かす政党であり続けている。
では、この日本の戦後史を決定づけることになる自由民主党の結成は、どんな思惑のもとになされたのか。一度分裂した政党同士が、なぜふたたび一つになったのか。誰がどう動き、どのような過程があったのか。
これは決して過ぎ去った過去の話ではなく、現代の我々にも関係がある。自民党政治は、いまだ続いている。自由民主党、その結成の目的と過程を改めて知る事で、戦後から現在、そして未来に対する我々と政治の関わりにも新しい視点が生まれるのではないか。
以下、本書では自由民主党の結成にいたる時の流れを、主要な人々の思惑と動き追うことでみてゆきたい。彼らは、一体どんな理想を抱いて「自由と民主」の名の下に結集したのだろうか。
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