一度目の人生の経験が、二度目の人生への助走になったのかもしれない
人生の振り返りのようなことを書いてしまった。
仕事探しのはじまり
「仕事探し」を始めたのは、10代の頃だ。まだネットも無かった高校時代。色々と本当に無知で、大学進学が何を意味するのかすら、まったく知らなかった。学歴によって就職先や賃金に格差が生じることなどを知ったのは大学を出てから。能力に関係なく、4大卒、短大、専門などの学歴に応じた給与体系になっている企業があることに疑問を感じた。
高校の頃、絵に興味があった。絵というよりアニメ。三度の飯よりアニメというほど好きでもなかったが、進路を決める時期になって、アニメの専門学校の資料を取り寄せたりはした。ちなみに当時のアニメ好きはネガティブな意味で「オタク」なイメージが強かった気がする。自分はそんな感じで見られることは嫌だった。
専門への進学は親に反対された。反対されて押し返すほど強い気持ちは持っていなくて、じゃあどうしようとなるが、絵が好きで大学となれば、担任教師は当然、美大を勧めてくる。
美大には画力の試験があり、それが学力以上に重要であることは知らず、担任もそういうことは教えてくれなかった。後に美大入試ではデッサンの試験があると知ったとき、高校時代に田舎から遠路はるばる美大予備校に通っていたSくんのことが頭に浮かぶ。美大受験の準備をしていたんだなと。
美大を出ても就職が難しいと親は考えていたし、実際そうだったかもしれない。まあでもいま思えば、これは人による。クリエイティブ業界には美大卒の優秀な人は多くいる。しかし美大もどうしても行きたいという熱意は無かったし、そもそも、どういうものかわかっていなかった。
絵の他に興味があったのは、英語。他の教科よりは少し成績がよかった。これは中学のときに塾で単語や慣用句を丸暗記させられて、その貯金があったから。高1の単語テストで学年1位になったぐらいには暗記していたが、残念ながら、そこからあまり実力は伸びていない。役立ってはいるけど。
そんなちょっとだけ得意な英語に関係する学部を探し、推薦入試で受験。駄目なら専門にしようと思っていたが、合格してしまった。
職業感が持てないままに大学を卒業し、就職
大学時代は真面目に勉強しつつ、空手に多くの時間を費やす。大学に行ったら空手をやると決めていた。ちなみに中学の3年間は柔道をやっていたというと、強そうな感じがするが実際は違う。
中学では卓球部に入ろうとしていた。楽そうだったから。でも人気があり、入れなかったときに小学校のときから仲がよかったKくんに柔道部に誘われた。柔道部も楽みたいだと聞いたのだが、そんなはずはない。それを何の疑いもなく信じるぐらいには素直だった。
入部当時の身長は140cm台で、体重も軽く、小さい。勝ち気も無く、自分から攻めて相手を投げることができなかった。その結果、3年間、柔道をやっていても白帯のまま。ただ高校の柔道の授業では、未経験者を簡単に投げられたので、まあそれぐらいの能力は身に付いていたらしい。受け身も体が無意識に反応するぐらいにはなっていた。
しかし自分の弱さには自己嫌悪があり、大学では空手を始めたのだが「強さ」の基準が曖昧だった。試合に勝つことが強さと考える人もいたが、自分はそうではない。じゃあ強さってなんだろう。答えは出なかったが、稽古を通して、敵は己の中にいること、下手でも真面目に取り組めば、上達するということはわかり、指導員の代行をするぐらいにはなった。
大学では自分がやりたい仕事を見つけようと色々なアルバイトをしたが、これというものは見つからず。就職活動にはまったく身が入らず、実家に帰って仕事を手伝いながら、やりたいことを考え続けることにした。
最初の職場でMacに出会う
最初は実務をしながら実家の仕事で必要になる資格を取らせてもらえる企業で3年間お世話になることに。そのとき会社が借り上げたマンションで同居していた先輩のColor Classic IIを見て衝撃を受ける。
当時はWindows 3.1の日本語版が出たぐらいの頃。典型的なパソコンのイメージは、黒いスクリーンに緑色の文字で操作はコマンドライン。しかしColor Classic IIはGUIで、画面にはかわいいアイコンが並ぶ。これがMacとの出会いだった。
それまでパソコンなど使ったことも無かったのに、なぜかすっかり魅了されてしまい、Macが欲しくなる病にかかる(未だに完治していない)。しかし欲しいと思った機種は、CRTモニター込みで35万円ぐらい。でも妻(結婚前)の「欲しいなら買えばいいじゃん」という江田島平八ばりに男らしい言葉に背中を押されて購入した。
CPU 80MHz、メモリ16MB、ディスク350MBという、いまとなってはスマホ以下の衝撃的すぎるスペック。従量課金のネットも契約し、ブラウザも購入した。ネットに可能性を感じたわけでもないし、何のために大金をはたいて買ったのか、よく覚えていない。
かっこいい言い方をすると「直感を信じた」とかになるんだろうけど、ただ単に謎の物欲に支配されていただけ。当時はまだ会社員が1人1台パソコンを使うような時代では無かったが、Macを買ったことで趣味としてパソコンやネットの扱いを覚えた。
転職先で空気が読めないっぷりを発揮
色々あって3年お世話になる予定だった会社を2年半ぐらいで辞めて初めての転職。入社後どれぐらいだったか覚えていないが、会社にパソコンやネットが導入されることになった。もちろん、いきなり全社員ではなく、管理職ぐらいの人達限定。
男性社員達がパソコンに群がり、一生懸命、エロサイトにアクセスしていた。システム部がログを見ていることも知らずに。そんな連中をシステム部が泳がせていたことを後で知った。まずはパソコンという新しいものに慣れさせることを優先したらしい。大人すぎる。
自分は自分で勝手に会社にパソコンを持ち込んで(デスクトップのMacからThinkPadに乗り換えていた)仕事に使っていた。業務効率化のためだった気がするが、何をやっていたのかは覚えていない。
仕事にこなれてくると、割り振られた業務をすぐに片付けられるようになり、まとめて2週間分の有給を取って海外一人旅に出掛けたりした。仕事はすべて終わらせているし、有給取得の権利もある。と思ったが、さすがに申請は駄目元だった(が、何も言われなかった)。その後、他の社員もそういうことがありなんだとわかり、長期休暇を取る人が増えた。よかったね。
当時は会社の経営陣と話をさせてもらう機会があったのだけど、愛社精神が皆無の天下りとかいて、いま思うととても興味深い。空気を読まず、会社の偉い人に対して「出世に興味はありません。」とか言ったら、鳩が豆鉄砲を食らったような顔をしていたのはよい思い出。上司だろうが先輩社員だろうが誰彼構わず意見した。
中学のときは自己嫌悪するぐらい弱かったのに、なぜこんなに物言うようになったのか。空手で性格が変わったわけではなく、いまも弱さはある。 元々、真面目さや正義感の強さはあったので、それが出たんだろうと思う。
CGとの出会い
会社のとある部門で3DCGのソフトやハードを見せてもらったことがある。本物のCGソフトやハードを見たのはそのときが初めてだったかも。ソフトは当時から業界標準だったMaya、ハードはわかる人にはわかるSGIだったが、恐らく合わせて200万を超えていて、個人で手の届くものではなく、その時点で興味を持つことは無かった。
その後、色々あって2回目の転職。そこで個人でCGをやっている人に出会い、衝撃を受ける。Shadeというソフトで、安価なバージョンなら2万円以下だったので、すぐに購入した。
CGソフトを使えば絵心が無くても絵が作れるんじゃないかと思ったが、すぐにそんなことはないとわかる。うまい絵が描けなくとも、観察力は必要だった(そして後日、デッサン教室に通うことに)。
徐々にCGへの興味が深まるが、仕事にするとなるとハードルが高い。住んでいたのはCG関連の仕事が少ない中部圏。CGを仕事にするために関東に引っ越すほどの強い気持ちも自信も無いし、妻も反対だった。
CGが使われる分野というと、遊技機(パチンコ)、ゲームなどが大きいがどれもやらないので興味が持てない。映画に興味はあるが、20代半ばで異業種・未経験で転職は難しい。CGは好きだけど趣味にとどめることにした。
CG勉強会のはじまり
2回目の転職先がすぐに傾いてしまい、3回目の転職。CGは「役に立たない趣味」として続けていたが、情報量が少なく、現在のように独学には向かない環境。わかっている人に直接聞けば、即座に解決しそうなことを何時間も調べるなんてことは珍しくなかった。
中部圏で直接会ってCGのことを話せる仲間が欲しい。mixiで知り合ったCGイラストレーターに声をかけ、とあるセミナーで会うことになった。その後、2〜3年ぐらいは2人で会ってCGの話をしていたが、仲間が増えてC3DというCG勉強会に発展。2021年5月で16年目に入った。
名古屋でしか開催したことがないオフライン勉強会であるにも関わらず、これまでに中部圏以外にも、北海道、関東、北信越、関西、九州など日本全国から、のべ500人近くが参加。コロナ後はオンラインで継続している。
最後の転職・独立
3回目の転職で入った会社に大きな不満はなかったが、さらなるやりがいを求めていた。そんなときに最後の会社となる前職を知る。IT系企業としては珍しく名古屋が本社で、外国人スタッフも多いようだった。そして入社。
外国人スタッフ達とは、うまがあった。何人かはいまでも付き合いがあるぐらいには打ち解けた。日本の会社組織では浮いた存在だったが、所変わればである。
しかし入社直後に、会社が本格的な東京移転を進めていることを知る。数年後、名古屋は自分1人だけになり、これ以上とどまることで会社に迷惑をかけたくなかったので解雇を願い出たが、名古屋に拠点を残してくれたので留まることになった。
東京はどんどん社員が増えていく。名古屋は残してくれたものの、合理性を考えて引き払われる不安は常にある。中途半端な年齢で会社をやめることになるのは厳しい。他にも色々と思うところがあり、独立を考え始めた。
組織が大きくなればできることも増えるが、人数が多くなれば、自分の考えどおりにはいかなくなる。4回の転職を経て、さすがにそれはわかっていた。自分の思い通りに行かずに不満を感じることがあったら、次は独立しかない。そう考えて会社の門を叩いていた。
しかし独立しようにも手に職がない。でもできることをやるしかない。そしてブログという個人メディアを育て始めた。そこでネタとして作ったダンボールアートがテレビ局、ディズニーの仕事につながり独立のきっかけに。もちろん、それだけで仕事になると考えたわけではない。
ただ、よい機会だったし、人生折返しの年齢に差し掛かり、そこからは二度目の人生と考え、思い切った。
10代、20代より、50手前のいまが一番
ダンボールアーティストという謎の肩書きで42歳で独立。2021年で7年目に入る。来年は50歳だ。多くの人に気にかけていただきながら、いまに至っていて、本当に感謝しかない。人と運に恵まれていると思う。
10代の頃、一生打ち込めるような仕事をしたいと考えていたが、独立前の「一度目の人生」では、それはかなわなかった。では独立後の「二度目の人生」では、どうだろうか。経済的な部分では、まだまだ頑張らないといけないが、仕事はとても楽しい。
独立最初の年には、初挑戦のデザインコンペでプロダクト部門最優秀賞を受賞。なぜか毎年、雑誌、ウェブ、テレビなどのメディアで取り上げていただき、2018年にはANA WonderFLYクリエイティブアワード受賞、自動運転車(試作)の外装デザインも手がけさせてもらった。
2019年は那須塩原クリーンセンター向けのインスタレーション制作、きゃりーぱみゅぱみゅさんのミュージックビデオ向けの衣装制作、そしてnote社でワークショップ開催。
コロナ禍で仕事の環境が大きく変わった2020年には、CreativeCapital(現 LUCK株式会社)主催のイベントにて、初めて子ども向けのオンラインワークショップを開催。LUCK株式会社が過去に企画・書籍デザインなどを担当した「こども六法(著者 山崎聡一郎)」は、発行部数65万部のベストセラーになっている。
そのLUCK株式会社の小川さん初の著書となる「キラリモンスター ちょっと変わった偉人伝」には、錚々たる顔ぶれが並ぶ。
HIKAKINさん(ユーチューバー )
渡辺直美さん(お笑い芸人)
冨永愛さん(ファッションモデル)
奥村心雪さん(サンリオのデザイナー)
家入一真さん(ペパボ、BASE、Campfireなどの創業者)
河瀨直美さん(映画監督)
などなど、そして…
いわい ともひさ(ダンボールアーティスト)
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> 圧倒的「お前、誰」感(震) <
 ̄Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y^Y ̄
小川さんの著書への掲載というお話をいただき、軽い気持ちでインタビューを受けたのが昨年。他に誰が載るのかはその時点では知らなかった。そして今年、初稿を見てことの重大さを思い知るが、ときすでに遅し…
自分はさておき、他の皆さんは子ども達のよいお手本になる方達ばかりなので、ぜひ書籍を手にとっていただきたい。8月10日発売予定(地域によって前後する可能性あり)。電子書籍化も予定されている。
人生には紆余曲折あるが、スティーブ・ジョブズの言うとおり、振り返ってみると点と点がつながってくるものだ。
10代で英語力の基礎を養い、アニメに興味を持つ。
20代でMacやネット、CGに出会う。
30代でCG勉強会を始める。
40代で独立し、在宅でクリエイティブな仕事を始める。
早くから慣れ親しんできたパソコンやネット、ちょっとだけ得意な英語は仕事で活用し、Macも毎日使っていて、一度は趣味として割り切ったCGの仕事もできている。そもそもCGに強く惹かれたのは、絵やアニメといったものへの興味が原点にある。
40を過ぎてから業界の経験もなく、大した実力もなく、独立して在宅でクリエイティブな仕事などできるわけがないと思っていた。でもいま、まだまだ満足できる形ではないけど、それが実現している。
それは直接的・間接的な、多くの人達の支えがあればこそ。10代、20代、30代と打ってきた点があり、40代になってそれが線になった。色々なものがつながっている。
20代の頃は気持ちが腐っていた時期もあり、何のために生きてるのかわからんみたいなことを考えていたときもあった。いまでも生きるのは大変だと思うことはあるけど、50目前にして、楽しいときを過ごせていると思う。
家族のいる自宅で、夏はTシャツにステテコ、冬はフリースに暖パンで働き、犬の散歩をして、たまに庭の雑草をむしり、年季の入った家の修繕をする。そんな日常に豊かさを感じる。
年齢を重ねれば体力も落ちるし、周りのことも考えて段々身動きが取れなくなってきたりするけど、若い頃に戻りたいなどとは微塵も思わない。だって、やっとここまで来たんだから。いまの知識や経験を持った状態であっても戻りたくない。いまが一番いい。50代はもっとよくしたい。