冷泉彰彦の桐島聡像
サブタイトル「爆弾テロは100%無駄だったという証拠」で、メディアは『冥土の「桐島聡」を糾弾せよ』という指摘は、氏にしては論調が粗削り過ぎだ。1人の人生を全くの無駄だと決めつけるには余りにも単眼的過ぎる。『人を殺してまで追求した正義』とは、力んで論説しているが、先ず、時代背景的に氏は青春時代に学生運動の渦中にはいない、また、その急衰退していく日本の社会運動の渦中(1993年より米国在住)にもいないという現実がある。
気になるのは、『恥ずかしすぎる勘違い』、しきりに、「全くの思い違いと思い込み」という切り口で語っていることだ。そのことで「殺害」が行われることは極力避けるのは当然のことだが、偶にはある。
また、私達は多くを勘違いしていることで辛うじて生き延びている側面も儚くもある。1人の人生とはそんなものだ。『貴重な人命を奪った罪は50年の年月を経ても消えることはありません。究極の無責任であり逃げ切りであると思います』という感想は誰もが思うところだろう、私も同感だ。社会的善悪の枠を外せるとして、人間は、自己の存在をどこかで確認する、是認することを繰り返し、また否定しながらも是認本能に駆られて生きていると推測する。存在そのものを最後に確認したかった自己本能が本名を口にさせたものと思う。
世界は矛盾だらけだ、私達は無力だ。ヒトラーと化したネタニヤフ首相は、パレスチナにおけるユダヤ人以外は殆どハマス陣営だと公表することで、今度は世界からの支援物資、支援金を遮断することに成功した。
先進国はパレスチナ人への支援を停止した、完全な兵糧攻めで殺害の続行を後押しした訳だ。私達もそれに加担して、誰もそれを止めることをしないし、出来ないでいる。大量殺人は放置され、数人の殺人者は冥途にいっても糾弾される。歴史は矛盾を包含しながら生き延びているが、それもいつか矛盾そのものが自爆する時があるだろう。