追悼・篠山紀信
山内 宏泰氏はセザンヌがモネを評して『モネはただの『目』だ、しかしなんという『目』であることか!』を詰って、『これほど多彩な光景に触れてきた篠山紀信の「目」は、なんという「目」であることか!』と書いている。山内氏は『篠山紀信の写真の一枚ずつが、「思い出再生装置」として機能する』と。掲載されている「写真」作品を改めて見た訳だが、そこにある色彩の調和に感心しながら、ふと、ロバート・メイプルソープの白黒肖像写真を思い出した。篠山氏の色彩は調和を感じさせるが、色の対立を刺激的に感じさせない。その点、メイプルソープの白黒作品は直接的に過激性を感じさせると改めてわかった。
メイプルソープの白黒写真は、モノクロ写真ではない。そこに彼のアート性が滲み出ている。最早幻のカメラとなった8インチ×10インチカメラの近撮が生み出す不思議な立体感だ。 iPhone 15 Proの台湾製4800万画素とツァイスジャーマニーのレンズの違いが大いにあると私は感じているが、それ以上に彼のマクロ的手法にそのアート性を感じる。因みに、私達の時代は4×5カメラになっていた。リンホフマスターテヒニカは実によくできたカメラだった、そしてフジのGW690IIIが生き残っている。しかしこれでは篠山氏の「目」にとってかわることは出来ない。