共感を呼ぶ、核のようなもの 

これはギリギリ8月分とする。夏休み最後の日だから。

今まで見てきた展示のフライヤーや絵葉書を年度別に分類する作業をした。
いずれ役に立つし、自分の源泉を知るために必要だったから。

箱をいくつか用意して仕分けていくと、過去の茂みをずんずんとかき分けるようで楽しかった。この年は多く展示に行っているだろうと思ったら、案外行っていなかったり、逆もまた然り。もう10年も前のチケットがあったり、どの展示かわからない絵葉書があったり、黙々と手を動かしていると色々なことを思い出した。本当にたくさんの展示に行ったものだ。

私は行った展示で必ず1枚は絵葉書を買っている。
これは10数年以上続けている唯一の趣味だ。その展示に行ったという証明になる上に、自分の好みが分かる。その展示の目玉や、一目見て気にいった物を厳選して選ぶようにしている。
面白いのは前に買ったことを忘れて、同じ作品を違う展示で買っていることだ。印刷の具合や色味が全く違う。でもまた巡り合って気に入ったんだな、という無意識の好みが見えて嬉しくなる。
また、昔は絵葉書の紙袋にその展示の名前や絵が印刷してあったり、絵葉書の裏の展示名が箔押しだったり、拘ってお金をかけていた。しかし、最近は紙袋に印刷はほぼないし、絵葉書の裏も大体黒インク。悲しいことに、こんなところにも静かな凋落が見えるのだ。

膨大な数なのに、私は一つひとつ手に取るたびにいつの展示だったか、どんな展示だったか思い出すことができた。記憶の手触りがあった。でも同時に一つ一つ詳細に覚えていることで、むしろ縛られていることにも気づいた。これだけ「好き」の方向性があれば、それは迷うことだろう。「あれもいいな、これもいいな」と目移りもすることだろう。思い入れを持ちやすい性格だからこそ、全部並列に思うのではなく核を持たないとな、と改めて思った。

整理していくうちに、昔から好きな絵にまた出会った。

フェリックス・ヴァロットン「ボール」

確か5、6歳くらいの時から好きだった。これが誰の絵だとか、どういう影響を受けたのかとか、美術史がどうだとか、そんなことはどうでも良くて、見た瞬間から「あ、私の絵だ」と思った。今も見るたびに思う。

なぜなら、家の近くの公園の絵だと思ったからだ。なぜかは分からないが、その公園を描いた絵だと固く信じていた。それは影の落ち方や、緑、茶色の地面の色彩や雰囲気がその公園にそっくりだからだ。走る女の子は日本人ではないが、それでも私だと思っていた。公園を駆ける自分の絵だと思っている。追いかけるボールは、よく使っていたツヤツヤのピンクのボールを想起させた。
私はもう少女ではないが、今もこの絵を見て駆けていた公園の深い緑、耳の奥まで響く蝉の声、前を跳ねるボールを追いかけるあの頃の自分に戻ることができるのだ。

改めて今夜この絵を見て、絵画の力とはこのことではないかと思った。
国も時代も違う作家の作品に、ここまで原体験を掘り起こされる。私はこれから老いていっても、少女の自分を思い出すことができる。時空を超えて共感できるというのが、やはり絵の力なのだろう。個人の体験を突き詰めれば公の記憶となり、それは共感という形で共有できるのだ。明日から始まる忙しない日々でも、今日思い出したことは忘れないようにしたい。


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