#10 承認欲求とうまく付き合うということ

他人からよく思われたい。他人よりよく思われたい。
こう思うのは、人間として自然ではないだろうか。

なぜ人間がこのように考えてしまうのか。
それは生物的な本能からかもしれない。
自分の遺伝子を後世に残すために、パートナーを探す必要がある。
自分にとってより良いパートナーと結ばれるには、
周囲の同性よりも何かしら抜きん出ている必要がある。

このロジックで、この世界の社会問題の多くを説明できるのではないだろうか。

例1 いじめ

例えば、学校でのいじめ問題を挙げよう。
いじめっ子というのは、いじめる対象となる子に対して、
「こいつの性格(言動、見た目、家柄等)は○○だ」と、
声高に判断して見せることにより、周囲からの評判を集める。
いじめっ子の周囲にいる子たちも、
このように声高に価値観を公言している人は影響力が強いと感じ、
いじめっ子側に賛同していた方が社会的に
(学校のクラスというコミュニティ内の話だが)
認められやすいと思うのではないだろうか。
教師などの有力な第三者が介入しない限りは、
必然的にいじめのような構造が自然と発生するのでは、
とも私は考える。

すなわち、いじめが自然発生するのは、
「誰かに認められたい」「誰かより優れていると思われたい」という人間的本能に由来するものであり、
これを「いじめはいけないことだ」という精神論だけで抑え込むのは、
ほとんど不可能に近いのではないかと思う。

※もちろん、私はいじめを肯定したいわけではない。
何らかの仕組みを設けることで、過度ないじめの進行を防ぐことができるだろうと考える。
学校の先生とは別の第三者が積極的に介入し、子供たちが相談しやすい仕組みづくり等が、まずは早期の解決につながるだろうか。
この辺りは専門外なので、的外れなことを書いていてもご容赦願いたい。

例2 バラエティ番組

お笑い芸人がバラエティ番組でいじられているのを見て笑ってしまう我々の感性も、
これに類するものではないかとも考える。
もちろん、お笑い芸人は道化のように振る舞い、
いじられたり他人に笑われることを生業としているのだが、
なぜこれが仕事になりうるのか、という点にこの答えがあると思う。
それは、リアルの人間関係では到底できないような、
他人を見下して笑うという行為のアウトソーシングと捉えられるからだ。
そしてこの行為により、自分の社会的安全性を確認したり、自己承認感を満たしているのだ。
(もちろん、純粋な漫才やコント、落語や大道芸については、
また異なる種類の笑いなので、他人を蔑むことのアウトソーシングには当てはまらないと考えている。)

例3 資本主義社会の貧富の格差

同様に、現代社会で資本主義が尊重されていることにも当てはめることができる。
本来、共有財産だった土地や資源や労働力を、私的に蓄えることにより、
他人より優れていることを誇示したいという本能を、
社会を構成している多くの人が抱えているため、
資本主義が成立しているのではないだろうか。
人間とは欲深く、かつ隣の芝は青く見てしまう生き物で、
本来手にしたかったものを手に入れても、次の欲望が生じてしまう。
こうして資本家が競い合うことで、より富が資本家に蓄積されてしまい、
より安い労働力が評価されてしまうので、貧富の格差が拡大する。

承認欲求とうまく付き合うということ

ここまで書いてきたことは、承認欲求と言い換えられるかもしれない。
承認欲求は後世に遺伝子を残すために人間に本来備わっているものなのかもしれないが、
きちんと自分の中でコントロールしなければ、
真っ当な人間から、いわゆる「承認欲求の化け物」になってしまうのだ。

ゲームで発散するのもよし、YouTubeやSNSにUPするのもよし、
おいしいご飯をたべるのも、好きな勉強や研究を突き詰めるのもありだ。
どんなことでもいいから、何か自分の打ち込めることや、
熱く語れることを一つ持つ
ことで、この点は解消されるだろう。
そして最も重要なのは、各個人が抱えている熱い気持ちを、
嘲笑ったり、否定したり、または他人に押し付けたりしてはいけないということだ。

相手を尊重し、社会的に「承認」してあげることで、
それぞれが穏やかに過ごすことができるのではないだろうか。
各個人が、それぞれの幸せを手に入れる世界が訪れることを望みたい。


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