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無知を恐れずに-weekly ivote#09

こんにちは、Rintaroです!
ついこの間まで夏気分だったのが、もう10月となり今年もあと少し。
本当に時間というのはあっという間に過ぎてしまいます、、、
そう考えると、たかが一日と思うのではなく、一日一日を大切に過ごさないといけず、自分の生活リズムを改める必要があるなと痛感しております

ー無知を恐れずにー

さて、今回はタイトルにも掲げたように「無知」ということについて考えていきたいなと思います。

私は、現在法学部に所属しているため、毎日法律の勉強はしているのですが、それ以外の学問も学びたいと考え、今学期は文学部の授業を一つ取ることにしました。
今週はその授業内でニーチェが取り上げられており、彼の真理論に触れることができたため、今日はそれを基に記事を書いていこうと思います。

少し引用が長くなってしまうのですが、ニーチェは、

「「誤謬と無知は危険だとされる。そのため、「真理が存在し、そのお陰で無知と誤謬が終焉した」という主張が、あらゆる誘惑の中で最も大きな誘惑となる。だが、いったんこの主張が信じられると、それにより、吟味、探究、慎重さ、挑戦の意志が麻痺してしまう。これらの意志は、それ自体が、〔真理に対する〕冒瀆、真理に対する懐疑と見なされてしまう。 ならば、《真理》とは、誤謬と無知以上に危険だということになる。《真理》は〔人々から〕 解明や認識に携わる意志を奪うからである。

と記しております。

また、「真理とは何か」という問いに対しては、「惰性である。それは、精神力〔認識力〕の使用を最小限に抑えることで満足を与える仮説のことだ」と述べています。

私は、これらのニーチェの言葉を読んだ際に、はっと気付かされた気持ちになりました。
私自身、無知というものに対して得体の知れぬ恐怖感を抱いております。
無知は、「知らないなんて恥ずかしい」「この人は教養がない」等の心情を相手に芽生えさせる可能性があると思っているからです。
そこで、無知を恐れてある一視点からのみから物事を捉え、全てを把握したかのような気分に陥ってしまいます。

しかし、物事というのはもっと複雑で、多種多様な事情が絡み合っている場合が多いはずです。
それなのに、ある特定の角度から物事を見てしまっているのは、それが非常に簡単で、負担のない行為であるからなんだと、その授業で気付かされました。

例えば、今起きているイスラエル-ハマス間の戦争も、「ハマスの急襲は、非常に残忍で、イスラエルは被害者だ。また、欧米はイスラエルを支持しているからハマスは悪だ」と、ある一部の行為を切り取り、特定の視点から見ることで、正義か悪かが決まるので、非常に容易に当該事象を捉えることができます。
しかし、より長い時間軸でこの対立を見てみると、上記方法みたく簡単に片付けられる問題ではなく、双方ともに言い分があります。(ハマスの攻撃を正当化する意図はありません)

このように、物事を抽象化・単純化してくれる真理に依存することで、無知という状態に置かれずに済む状況に満足してしまうことが私自身多かったですし、同じような経験がある方もいらっしゃるのではないでしょうか?

ただ、決して真理に依存することが悪いかというと私はそうは思いません。なぜならば、そもそも「無知であることに気付いていない」ということが前段階にあるからです。
無知を恐れて、真理に依存することをしている時点で、少なからず物事に対して興味・関心を持っているということになると思います。
その上で、次に「様々な視点で物事を見ることができるか」ということが重要になってくるのでしょう。

と、脈略もなく、ごちゃごちゃと書いてしまっていたのですが、私自身の結論としては、無知を受け容れることが私の最適解なのではないかと考えています。
そもそも無知を恐れなければ、真理に依存することもないわけで、知らないものは知らないと言い、様々な人の意見を聞く。それに加えて、自分なりに学習をする。こうすることによって、自然と知見を深められるのではと思います。
したがって、私は、無知を恐れないことを意識して、一日一日を過ごしていきます!

最後に

長々と書いてしまいましたが、ここまでお付き合いいただきありがとうございました🙇‍♂️
また、本当は昨日あげる予定でしたが、定期券と学生証を紛失してしまい、バタバタしてしまったため、投稿が遅くなりました。
申し訳ございません。

また来週のweekly ivoteをお楽しみに!!


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