うす曇りの日

好きだった女優さんが久しぶりに雑誌に出ているのを見た。異国での暮らしぶりが紹介されていた。人に指差されることがなくなった日々の暮らしの中で、彼女はなりたかった自分を見つけたと言う。掲載されている写真を見ると、元々眼差しの強い人だと思っていたけれど、その表情は決してやわらかなものには見えなかった。本当に彼女はそう思っているのだろうか。

なりたい自分て何だろう。昔、そういうことを何かの流れでその頃頻繁にメールのやりとりをしていた人に尋ねてみたことがあった。

「なりたい自分、理想の自分。そんなの言えるわけないよ」
返信された文章は、予想外に語気の荒いものだった。それはそう簡単に言葉にできるものではなかったのだろう。少なくともその頃の彼の中では。

「怒ってるの?」と尋ねたら、「怒ったことなんて一度もない」と返して来るような人だった。

彼とは高校生の頃に図書室で知り合った。図書委員だった彼は放課後よく図書室にいて、パソコンに向かって図書のデータを入力する仕事を手伝っていた。その頃のわたしは、本のことを尋ねているうちに司書の先生となんとなく仲良くなっていて、カウンターをはさんでぽつぽつ彼とも話をするようになったのだ。

不思議な人だった。心の内に何かを抱えているような面差しをしていたけれど、話し始めると時折ふわっと笑って無防備な表情になった。
脳内が四つの部屋に分かれていて、それぞれの部屋の中に別々の自分がいると言っていた。絶えず思考していて頭の中が忙しいと。

彼とのメールは今はもう跡形もなく消えてしまったけれど、お互いのことを語る話の合い間に、彼からはその司書の先生の話題がよく出てきていて、妙に落ち着かない気分になったことを覚えている。実際のところ彼は、35歳という年齢よりずっと若く見えるその女の先生のことが好きだったようだ。けれど、それはまた別の話。


ところで、いま現在のわたしは、なりたい自分になれているのか。確かに小さな夢はいくつか叶った。例えば、生まれ育った家から遠く離れて暮らすこともその一つだった。けれど、わたしにとってのなりたい自分はまだわからない。ずっと未知のままだ。

明るい人になりたかった。人の話題の中心にいてみたかった。そんな少女期の幼い夢は今は遥か遠くに霞んでいってしまった。

悩みながら考えながらここまで進んで来て手にしたもの、見えて来た道がある。回り道だと無駄足だと思ったことも今思えば必要な出来事だったと思える。

誰かに強く愛されてみたかった。誰かのことを強く思ってみたかった。おそらくそれは叶った。叶ったから、今はこんなに静かに生きていられる。

人は放っておいても誰かのことを好きになるし、それは恋愛に限らず起きるし、明るい光に満ちた場所を目指すと思う。その人にふさわしい適度な明るさの日向を探すのだと思う。

うす曇りの日をそんなに嫌いじゃなくて、むしろ心地よいと思うのはくらくらするまばゆい光の中の息苦しさを知っているからだと思う。

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