見出し画像

夢現(ゆめうつつ)#6

時が移り、私は中学に進学しました
その年の7月半ば、夏休みまで
あと数日というタイミングで
「ななお」が
メガネが合わないと
怒鳴り始めました


ちっとも、見えないから
字も書けないし
本も漫画も読めないと
イライラして大声で
騒ぎ始めたのです

これまでも時々、見えないと
訴えていました
が夏休みになってからと
なだめていたのですが
いよいよ
限界だったのでしょう

仕方がないので
母は仕事を休み
近所の眼科に
連れて行きました

ところが診察を受けて
大変なことが分かりました
目が悪くなっていた
のではなく
網膜剥離を起こしており
失明寸前の
状態に陥っていました

大至急、手術しなければ
右目は完全失明

左目も良くて弱視程度の
視力しか
留められないだろうとの
診断でした。

生まれたときから
「ななお」は
虚弱で偏食も激しく
魚は食べない、肉はひき肉を加工した
ハンバーグとか
甘く煮たそぼろなら
食べてくれますが
スライスは全くダメでした。

野菜もジャガイモのような
イモ類は食べても
生野菜はきらい。
果物も梨は食べても
リンゴは嫌い・・・。
白米が何より大好き・・。


正直、何が基準なのか
さっぱりわからない

反対に私は
好き嫌いがほとんどないので
私の分まで「ななお」が
文句を言っているようです


母からすると意思表示をする
息子は可愛く

手のかからない長女は
放っておける
有難い存在でした


息子が失明するかもしれない



仕方がなかったとはいえ
母親として
放任していた責任を
一気に感じたようで
大変な取り乱しようで
泣きながら
小声で誰かに電話し
長いこと話し込んでいました


翌日、学校から帰宅すると
家に父が居たので
昨夜の電話の相手は
父だった
と、わかりました

まぁ、それが普通よ
てか、それが
当たり前のはず
なんだけどさ

母は「ななお」を連れて
紹介された大病院に
行っていました
片道二時間かかる
隣の県の有名な眼科です

突然現れた父ですが
今後のことを踏まえて
助けを求めたのでしょうが
おかしなことです

当たり前のことなのに
お願いするなんて、いったい
私たちって
父の何なのだろう?


ななおの手術は
すぐに決められ
実行されました

レーザーで
できる限り網膜を
焼き留め
これ以上剥離が
進行しないようにする処置
だったようです

一晩、母は付き添って
泊まりましたが
その後は、仕事が終わったら毎日
病院に直行し
面会時間の終了とともに
帰路につく日々を長いこと
繰り返していました

精神的にも肉体的にも
きつかったはず

夜間の皿洗いは
休んでいましたが
昼間の仕事は
欠かさず行っています

父親の借金を
肩代わりしてくれた方の
商売を手伝っていましたので
休めないのです

およそ20年
ここで働きました

その間、給料は一回も
貰ったことはありません

働いた分はすべて
借金の返済に
充てられましたから

それでも
空しいことだけでは
ありませんでした

社内旅行と称して
社長御夫婦と一緒に
組合の海外旅行に
連れて行ってもらって
いましたし
季節ごと、もしくは
月に一度はドライブと称して
あちこちに遠足のような
行楽のお供をしていました


きっと、社長御夫妻が
母の心情を少しでも
安んじてあげようとの
ご配慮だったのだと
思っています

そんな折、弟は
同道していました

幼いからとか
理由はそれぞれですが
国内、海外問わず
一緒に行っていましたが
私は違いました

断ったのかどうか
わかりません
家にいたことを覚えています

ひとりで
過ごしていました

それが…
当たり前のように

孤独の自覚すらなく
ひとり・・・



これらは記憶にあります
まるで
本を読んだような記憶です

ここに書いた事柄を
覚えていますが
私はどう過ごしていたのか
わからない

この記憶は
私のものでしょうか?


それとも誰かが
読み聞かせてくれたものを
文章で覚えているだけなの?


いいなと思ったら応援しよう!

sennninnkame亀井速水
毎日の重ねから私なりの 「思い」を綴っております 少しでも「あなたの」琴線に 触れるものがあれば幸いです 読んで下さり、ありがとうございます