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人生で初めて感動を含めた涙が出たというお話-藤本タツキ「さよなら絵梨」を見て
注)ネタバレ注意です
はじめに
実は、さよなら絵梨は何度も読んだことがある。
だけど何回目だろうか…読み終えた後すぐに
涙がポトポトと落ちてきた。
なぜだろうか、その日はずっと何度もある数ページを忘れては開きを繰り返してセリフまで覚えた。
(表情は微妙に違うから覚えきれてないかも)
そして次の日に読むとなぜか違うシーンでポトポトと涙が出て読み終わった後に泣くことはなかった。
そして読み終えてから、この漫画のヒロインである絵梨の"ハリウッド創作論"を真似してさよなら絵梨を3回ほど振り返った。1回目、2回目は思い出したい描写をはっきり思い出せないのでそこだけ見返しながら考え、ようやく3回目は見ずに振り返れた。
そして私は時間が経てば経つほど何度も最後の爆発シーンはある作品に似ていると思った。
『さよなら絵梨』と『檸檬』
それは梶井基次郎の『檸檬』である。
思い浮かべた人もいるのではないだろうか?
もちろん『さよなら絵梨』『檸檬』は違うジャンル作品だしどこが似ているのかと言われるとすぐ思い浮かべるものはまぁさっき述べたように爆発くらいである。だが、こんなにも『檸檬』を思い浮かべたことはない。そこで久しぶりに『檸檬』を読んでみることにした。
(高校の授業で配られたのだがなくしてしまったので少しショックもすぐネットにある文章を読んだ…)
そして読んだ後また絵梨の"ハリウッド創作論"を試したが一回で言い表せずやり直して振り返った。
しかし、今回は作品のイメージを一言で言い表す→起承転結の逆を無意識にやっていた。読んでみて少し分かった気がする。私は『檸檬』の主人公の男と
『さよなら絵梨』の主人公優太は似ているようで似ていないと感じた。何より爆発させるという考えに至った理由が違う気がした。それにそもそも
『檸檬』のラストは主人公が丸善を出た10分後に爆発するからまだ爆発せずに終わっている。
『さよなら絵梨』では主人公が廃墟を出た後にすぐ爆発したシーンで終わった。
だから思ったよりも似てなかった、と感じたけど…だけどなぜだろうか…全く違うとは言えない。
男にとっても優太にとっても爆発させる場所は
どちらも思い出の場所である。
そして両者とも、"面白い"、"何か足りないものを埋める"という意味で爆発に至ったはずだ。優太が面白いという考えから爆発に至ったのかと断言はできないかもしれないが、絵梨の動画を再編集していた理由を理解して爆発させその理由は「ファンタジーが足りないんじゃない?」という絵梨の言葉だと
考えたら似ていると思える。
そして最後以外にも似ているところがあるなと
noteを書いてる途中に思い始めた。
それは、男と優太が自身を客観的に見ていることである。男は、自身を幻覚と重ね、そして絵の具で塗り合わされているのが自分であると見ている。
優太は、カメラを通して自分や物事を見てきたと
いう違いは少しあるがやはり客観的に見ている。
彼らは非常に似ている。優太も男も自分を見失っていたのである。男は得体のしれない恐怖があったというもので、優太は絵梨以前に母親を失っていた。また男はもう一度その何かに襲われているし、優太も母と絵梨、なんなら家族の喪失を経験している。
詳しく書くならば下の通りだ。
まず『檸檬』では、
男は元々閉塞感いわゆる絶望を抱えて生きており、以前好んでいたものも今や重苦しいものに変化していた。その後八百屋で偶々檸檬を見つけて手に取り再び高揚感そして希望を抱き、前へ進んだ…しかしかつて好んだ場所に行ってみると重苦しいものに変わらなかった。他になにか試してもそれは酷いものであった。そんな中男は檸檬を持っていたことを
ふと思い出しその重苦しく積み重ねられた本たちの上に乗せてみた。するとどうだろうか、男は少し気持ちが軽くなり再び高揚感が出始め、檸檬を爆弾と想像することができ再び前へ進んだのである。
一方『さよなら絵梨』では
優太は母親の死とその映画の評価に深く傷つき自殺を考えた。しかし自殺しようとしたところを謎の美少女絵梨に話しかけられ、一緒に過ごしていくうちに惹かれていく。そして映画を撮ることになるが
撮っている途中に絵梨の死期が近いことを知る。
再び主人公は死による絶望を味わう。
だがその後は父親が母の最期を見せた。それも
酷な事実だった。"最期まで使えない子"と…
そして父親は優太に対して向き合えてなかったと言いつつ優太の作った映画はとても綺麗だった、優太が綺麗に見せれるそれは才能なんだ凄いことなんだと涙を流しながら語った。そして絵梨ちゃんも皆に綺麗に思い出してもらいたいんじゃないかな?と言って終わった。主人公がどう思ったかは分からないが絵梨とまた廃墟で会い、映画も最期まで撮り続けた。絵梨が死ぬ最期まで。その後無事映画は完成したが主人公はずっとその映画を編集し続けた。
そして家族を失い、自身を客観的に見て再び自殺を図ろうとする。だがまた絵梨に会った。"その後
主人公は彼女と会うことはなかった。なぜなら
映画を編集していた理由が分かったからだ。
ファンタジーがひとつまみ足りないんじゃない?"
(199ページ)そして爆発している思い出の場所から主人公が出ているシーンで締め括られた。
多少2つの作品は異なることがあれど通じているものがある。どちらも絶望を抱えているところから始まり、また希望を見いだしつつもまた再び絶望に襲われる。だが最後は爆発で終わらせることによってそれぞれの主人公らが前へ進む。
どちらの作品もどんな人生があるかは分からないことを言っている。そしてもちろん、爆発後の人生もまた再び絶望に襲われるかもしれない。でも、
爆発したことによって確実に今まででの人生より
前へ進めたのではないか?
ただこうも思う。
やっぱり『檸檬』と『さよなら絵梨』は似てない…
おいおいさっきは似ていると言っていたのにどうしたことか!私はやはり文学に触れてこなかったからうまく説明する力が欠けているのかもしれない。
だ~が!言わせてくれ
やっぱりさっきの爆発は違うんだよ!と!
『檸檬』はあえて最後は爆発するという想像というか爆発せずに終わっている。
『さよなら絵梨』はあえて最後は爆発するシーンにしている。
『檸檬』では読者に爆発シーンを想像させ、
『さよなら絵梨』では優太が爆発シーンを入れさせているのだ。
私が一番言いたいのは、
"『檸檬』はあくまで読者によって完成する作品で『さよなら絵梨』は優太によって完成する作品だ"
ということである。
(あくまでもこれは私のド偏見考察であるが…)
『さよなら絵梨』のラストは優太に完成させることで成り立つ。いや成り立たなければならないのだ。本来この作品は優太と絵梨が完成させた映画のラストシーンで終わってもラストとしては問題ないのである。事実私も読み直した際、映画で最期の絵梨の
"みんなをブチ泣かして"という所で泣いています。
だがここで終わると違う作品になる。(続く)
違和感
もし絵梨の映画で漫画が終わっていたら『さよなら絵梨』を見ていてずっと思っていた違和感が残っていただろう。
『さよなら絵梨』を見た読者もおそらく同じところでほんのちょっとした違和感を抱いていたのではないか?気にするほどでもないかもしれない違和感。
言葉ではとても言い表しがたいのでそれらのページを載せることにする。
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これは優太が自分の作った母親の映画について
どこが面白かったか絵梨に質問しているシーン
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これは元々映画で死ぬ設定だった絵梨が本当に死ぬかもしれないと優太に打ち明けた後のシーン
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そしてこの130,131ページは115ページでショックを受けた優太に対して父親が母親の最後のシーンを見せて映画を振り返っているシーン
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私はこれらのページを見て思った。
主人公が最初に作った母親の映画は美化されたままでいいのだろうか…そして父親が撮っていた母親の最後の言葉が"最後まで使えない子"こんなことがあるだろうか。そして絵梨に対しても思った。
なぜ撮る前に言わなかったのだろうか…
これらのページは高校生の少年にとっては
あまりにも残酷な出来事である。母親も絵梨も少年にとってはあまりにも辛すぎることを強いているとも思った。例え酷い母親であっても少年にとっては母親である。綺麗に思い出したいのも分かる。
初恋の人と過ごした思い出が消えるのは耐え難い。
そもそも絵梨が映画を誘ったことも少年にとっては酷なことだったと思う。でも同時に少年は救われていたとも思える。
また母親と絵梨の映画は確かに綺麗である。
映画を見て綺麗にその人物を思い出せる。
だがこれはすごい違和感なのである。
なぜなら彼女らは映画だけの部分が彼女らなのではない。彼女らを構成してきたのは人生である。
また多くの要素である。その計り知れない大量の何かから映画だけでこの人はこうだとか断定されることへのやるせなさを感じるのは当然ではないか?
1個目の映画は最後は優太自身を表している。
これはオリジナリティが出ているということ。
2個目の映画は確かに傑作で涙を流せる。
だが果たして映画だけの部分が絵梨なのだろうか?
何年も過ごしてきた青春の人が死んだ。この残酷な事実を涙で語るのだろうか?涙だけでは語り尽くせないだろう。綺麗に思い出すだけでは足りないだろう。事実、優太はこの映画を何度も編集し直していた。彼は彼女と過ごした2728時間に答えがあると感じていた。
以上が私の違和感だ。最初にも言ったがこの違和感をなくしたのは間違いなくラストの爆発である。
そしてこのラストの爆発はとても重要だが、かなり賛否両論?のようである。確かにラストが呆気ないのかもしれない。でも私はそう思わなかった。
(余談ですが130,131の父親を見ているとなんか
三浦哲郎氏のメリーゴーラウンドを思い出します)
何度でも惹かれる4ページ
ああ…そういえば私が一番最初に何度もあるページを見返したと言っていたな、実は…そのページは
先ほどの違和感を抱いたページと違う。
何度も見返したのは
違和感があったからなのだろうか?
いや違うと思う。
なぜか覚えなければならないという衝動。
そのページはこれだ。
最後に主人公が周りの人間が死んでもう耐えきれないのかもと思い出の場所で自殺しようとしたときに目の前に絵梨が現れて話しているシーンである。
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なんとも言い難い素晴らしい4ページだと思う。
他にも惹かれるページはあるだろうに先ほどの
違和感を抱いたページよりも強く印象に残った。
いや先ほどの違和感があったからこそ、なのか…
うーんまずこの190ページの優太の疑問の投げかけはこれは絵梨に対してだけなのだろうか?これは
自分自身にも投げかけているのではなかろうか?
彼も自分より先に皆死ぬという経験をしている。
そして自殺する前に撮った動画では、絶望とはっきりは言ってないものの「もう人の死に耐えれるほど魂は残っていないことに気づいた」と述べている。
そんな彼の問いに対して絵梨は「私にはこの映画があるから」「見る度にあなたに会える…私が何度貴方を忘れても何度でもまた思い出す」「それって素敵な事じゃない?」と返している。(191-193ページ)
この4ページは全くと言っていいほど無駄がない。
スッと頭に入ってくるほど綺麗である。
背景、写映機がほんの少しの間を置いてくれる。
なんと美しいのだろうか…だがこの4ページも
先ほどの違和感と似ているのかもしれない。
この絵梨の映画は主人公にとっては何か足りないものだった。絵梨もそれについて言及している。
その映画で、ある人を思い出すことは素敵…うーん
なんだろう…難しい。この映画はあくまで
優太と絵梨が過ごした2728時間の一部である。
優太にとっては映画が絵梨の全てではない。
というかこの映画は青春の一部であるのに
綺麗さのみを見せているのが押し付けられている
価値観のようにも思えてしまうのだ。
綺麗さだけではないかもしれないが違和感を感じたページを見るとそう思えてしまう。
実際は綺麗という一言では完結できない…
でも192,193ページの絵梨の
言葉は先ほどの違和感を抱いたページとは同じではない気がする。だからこの言葉を素敵だと100%
見れるかというとそうでもないし0%でもない。
でも私もこう思いたいなと思った。なんだろうか
こういうのが理由なんてないただそう思っただけと言うやつなのだろうか。この感情は逃げているようだし向き合えてないのかもしれない。
けどなんだろうなぁ、何度考えても説明できない。
でもこういう感じなのだからこそ私はこの4ページに惹かれたのだと確信している。
ラスト
そしてこの後は納得のいくラストだ。
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爆発。これは優太が絵梨は自分にとって何か?を
映画以外で示したものだと思う。いや示したかったんだと思う!先ほど言ったような違和感が晴れた。彼なりに"これが絵梨だ!"を表現したんだと思う。ちょっとしたファンタジーを入れて前へ進む。これは藤本タツキ氏の他作品『ルックバック』にも見受けられる。『ルックバック』のラストは主人公の藤野が絶望を抱いていたがifルートを挟みそれが現実に繋がるというファンタジーが起きることで藤野は再び漫画を描き始めた。主人公なりにアプローチして終われたのだと思う。(ルックバックとさよなら絵梨は少し違う作品かもしれないけどね…)
また梶井基次郎の『檸檬』のラストも吟味したい。
『さよなら絵梨』の優太、絵梨も『ルックバック』の藤野も『檸檬』の男も当たり前だがラスト後の
人生がある。そしてまた絶望に襲われる可能性も
ないとは言い切れない。だけど『さよなら絵梨』と『檸檬』のところで述べたように前へ進めたのだ。
このさよなら絵梨がルックバックと違って賛否両論が多い理由は分かります。といのうも
まずルックバックと違いどこまでがファンタジーなのかということが物凄く分かりにくく、イマイチスッと話が入ってこないからです。
絵梨の友人が主人公に話しかけたときも少し違和感があるでしょう。主人公と絵梨が会ったとき、彼女はメガネや矯正をしてなかったように見えます。
果たして病院で会ったときから既に映画なのか?
そもそも一回目の映画の時点で絵梨も
「どこまでが事実か創作かわからない所も私には良い混乱だった」と言っています。
しかしこればかりは作者の藤本タツキ先生しか
分からないでしょうね。正直お手上げです。
また絵梨の映画を上映した後からのページつまり先ほどの惹かれた4ページのところでしょうかねぇ…そこもその映画と現実の境界線を分かりにくくしてます。ここの背景って主人公と絵梨が最初に廃墟で映画を見たシーンですからね…
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そしてもう1つは先ほど書いた最後です。
多分これが最も賛否両論になっている理由ですね。
オチが一回目の映画と同じく爆発オチだからです。
ただ一回目の爆発と最後の爆発て全く同じって
ものなんでしょうかね?同じ風に見えますかね?
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ラストの爆発と比べてみてもうーん
一回目はわざわざ爆発に3ページも使ってるわけですよね。ただただ映画に見せるためにあえて使ってるだけという感じの方が考えられもしますが…
一回目はセリフがあって最後はセリフがない。
また一回目は母親の最期を見ようもやはり病院に入れず走り出して爆発オチ。ラストの爆発は絵梨の映画を再編集していたことに気づいて爆発させたわけですから、少し違うかなと思うわけです。
爆発は単に最高だから入れたのか?
よく他の考察を見てても思うのですがどうもしっくり来ないんですよね。爆発させたのって一回目と同じく先生に言った通り入れたら最高だから?なんでしょうかね…
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そんなモヤモヤしてるなかある考察動画に
盲点を突かれました。
漫画模写RTAチャンネルさんの動画です。
"【考察】さよなら絵梨の「さよなら...」の真の意味とは!?読み解く鍵は50回目のファーストキス"
(下に貼ってます⚠️50回目のファーストキスのネタバレも含まれています)
正直言ってなかなか異端な考察ですが、面白い視点で考察しているなぁと思いました。この方は、
他の考察であまり話にならないある所に注目していました。それは先ほど惹かれた4ページの後です。
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彼の考察では、このページの前192ページの主人公の顔にも注目してます。
"ここの優太の顔が絶望の顔ではないか。なぜ彼は絶望したのかそれはこの映画は絵梨ではなくあくまでも映画の中の絵梨にしか過ぎず、再び現れた彼女はその映画に出てくる絵梨そのものであり、もう以前の絵梨ではないことに気づいたからから。そして194ページの主人公の言葉は嘘であり、彼自身は素敵だと思っていないし、だからその後に一緒に映画を見ずに彼女と会うことはなくなった。さらに詳しく言うならば母も絵梨もにている女性でだからこそ絵梨を好きになった。絵梨も嫌な側面を持っている。そんな絵梨が自分の作った映画によって私はこんな人間だったそれを思い出せるみたいなことを言っており、映画の綺麗な絵梨になってしまった。
ここで主人公はもう昔過ごしたような絵梨には
二度と会えなくなったのだということに絶望した"
彼の考察をみて自分は今までタイトルのさよなら
絵梨に関して見誤っていた気がしました。僕は元々どちらの映画も綺麗な側面のみであって確かにそこに写っているのは本当の彼女らではないよね。
あくまでも映画の中の彼女にすぎない。ある種希望的な前へ進むという意味で爆発させたのじゃないかなぁと単純に思っていたわけです。
初めてしっくりきた考察に出会えました。
そういえば、さよならのシーンの前で絵梨が一緒に映画を見てくれないことを不満げに思ってシーンがありましたね。少し嬉しそうな主人公と対比関係になっていますよね。ここだけ少し気になりました。
やっぱり映画での優太しか知らないからこそもっと
知りたかったんじゃないでしょうか?彼女はずっとこれからも生き続けるわけでいつか優太の方が先に死ぬわけです。そうなると彼女には映画しかないわけですが映画を見る度に優太の他のことを思い出せるから優太がこのままここにいてほしいようにも見えました。だって人間映画の部分だけじゃないですからね。それも魅力的でしょう。彼女が前世にどのような手紙を遺したかは分かりませんが知りたかったんじゃないでしょうか?この映画に出てくる優太について。何度だって貴方に会える。そう映画を見たとき、映画以外の、いや映画を含めた優太に会えるわけです。それってとても素敵な事じゃない?その通りだと思います。しかし結局彼女も脳をリセットした状態で生まれ変わるのでそれがずっと続くのは難しいですが手紙やらで遺すことも可能です…
でも吸血鬼であっても人間なんだなぁと分かる。
この漫画のさりげない魅力の1つです。
(まぁそもそもさよなら絵梨が少し難しいのでどの解釈が正しいのかしっくり来るかが分かりにくいですからね…他の考察でもああ私と同じような感じだとかうーん確かにとなるものもありました。ただここまであっあれ?なんで気にしてなかったんだろう?ってなった考察は初めてです。)
しかし彼の考察を見た今でも最後の解釈は一言で言うなら梶井基次郎の『檸檬』と同じく前へ進む、で
いいのではないかな?と思います。
結局この"さよなら"も前へ進むためのものではないでしょうか?かのギュンダー・グラスも"歴史は決して我々に慰めを与えてはくれない"という言葉を遺しています。彼らにあった出来事は慰めを与えてくれるものではないでしょう。
優太くんどころかそもそも1人の人間が"大好きだった2人の人間が死んだ"という事実を背負いながら生きることはかなり難しいのではないでしょうか?
そして家族も失っています。あまりにも慰めが無さすぎるんです。そして再び彼の目の前に
青春を共に過ごした人が現れるも彼女は映画の
中の絵梨しか思い出せない。また彼と過ごした青春もその映画のみにしか過ぎない。彼と彼女が過ごした2728時間は二度と還ってこないんです。わずか何十分かの綺麗な映画の中の絵梨でしかない。
友人にも言われていましたが決して絵梨は性格が
良いというわけではなく少し意地悪です。お母さんと少し似ています。そして絵梨は自分の最期までを綺麗に撮ってほしいと優太にお願いしているんです。辛すぎませんか?綺麗なところだけが彼にとっての絵梨じゃない。だってそうでしょ?人間てみんな良いところばかりじゃないですよ。でも色々なことがあるからこそ魅力的なんです。だから主人公は絵梨のことが好きになったんです。もう彼女は以前の絵梨ではない。これは残酷な事実なのも当然でしょう。でも彼は映画から決別できたんです。なんでずっと再編集していたのか…これを終わらせれたんです。確かに再編集していた理由はファンタジーが足りずにイマイチピンと来てなかったことです。
ですがそれだけではなく彼女との会話(先ほどの何度でも惹かれた4ページ)で分かったわけです。
そうして彼は二度と会わず爆発させた。
『檸檬』の男も確かに好きな人がという話ではないですし優太が偶然廃墟で絵梨と話したのとは違い
自ら以前の思い出であった丸喜に行っています。
でも彼は死期が近づいていました。彼は一見気にしてないように見えますがおそらく得体の知れない何かにふくまれていると思います。だってこれからの未来が悪くなる可能性があるわけですから。でも彼はわざわざ丸喜に行きました。偶然会った檸檬がそうさせたんです。それで彼は今は嫌いになっていたものと触れ合うも以前のようには戻れず再び憂鬱になってしまう。けどふとあっ檸檬があったなと思い出し、取り出して重苦く積み重ねた本の上に乗せる。するとどうだろう。一気に高揚感が出て最後は爆発させるに至ったわけです。前向きですよね。
『さよなら絵梨』もどうでしょうか?
彼は2回の映画を経ても何かモヤモヤとした思いを抱きながら過ごしていた。そして自殺しようとしたら偶然廃墟に絵梨がいた。再び触れ合うも絶望に襲われたわけです。もう以前のようではなかったから。でも、それは彼に気づかせたわけです。この後前へ進むことに。彼は出ていった後少し憂鬱そうな顔をしていましたが廃墟を出て爆発のシーンの際にはとても前へ進む希望を抱いている。そして以前のものやこれからいろいろなことが起きるかもしれないけれど前へ進んだわけです。
これを単に最高!で片付けるのは難しいでしょう。
『檸檬』の男も『さよなら絵梨』の優太も以前の名残を吹っ切れたのではないでしょうか?
結論
結局のところ私は、ラストは爆発でよかったしこれは前へ進むというのものであると今でも思えます。
また完全に決別したかと結論づけるのはすごい難しいことですが映画の中の絵梨とは決別できたんじゃないなかなと思います。映画の中の絵梨だけが彼女なのではないことを示す意味も爆発にはあるはず。
真相はどうであれ前へ進めた、というのが僕の
結論です。
なんとも変なまとめ方でイマイチな
感想になってしまいましたが…(公開した後に何度も編集して公開してを繰り返してまるで私も優太と同じことをいつのまにかしてます)
ここまで読んでくださりありがとうございました!
(いるかは分からないがいたら嬉しい…)
そして何より藤本タツキさん!
描いてくれてありがとう!
僕は初めてこの人生で感動というかなんとも言い難い涙を流せました!そんな体験をさせて下さりありがとうございました!ではこれで感想は終わり!