ぶらぶらとなんの目的もなく旅するときのように、日常への余白をもっていたい。
同じ町に住んでいても、出会う機会のないひとのほうが多い。
生活圏にないコミュニティに属するひとと、気兼ねなく知り合うことのできる場は、町の中にそうそうない。大人になったら小中学生や高校生と出会うことなどないし、近所に在留外国人が住んでいたとしても知り合わない。
なぜなら、話し始めるきっかけがないから。生活圏に関わるコミュニティ内でのコミュニケーションだけでも手一杯なのに、何の脈絡もない他人と繋がるようなことを積極的にすることを、人は選択しない。
学生だから出会わない、外国人だから出会わない、というのではなく、おそらくただ単に、他にも多くいる知らない大人とわざわざ出会わないように、脈絡がないから出会わない、というだけの話。
それだけの話、なのだけれど。
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東京では計四年間ほど江戸川区に住んでいた。新宿区に次いで、住んでいる外国人の数が多い区だ。最初の二年間は会社員時代とニート時代だが、まったく地域への関心がなかった。
その後ベルリン生活を経て、地域への関心を持ち始めた。とくに多いというインド人と、せっかくなら知り合ってみたいと思うようになった。
けれどインド人コミュニティに入っていくような動きを積極的にすることは結局しなかった。地域のイベント(区内の広島被爆者の集い)で、江戸川区議のインド人と顔を合わせることがあり、コミュニティへの興味を示してみた。好意的に接してくれたが、やはりどうも事はうまく運ばず、そもそも僕にモチベーションがそれほどなかった結果なのかもしれない。
いや、というよりも東京での日常には余白がなかった。
ベルリン生活ではといえば、日本人コミュニティには極力関わらないという選択をした代わりに、ドイツ人とはもちろん何人も友人になったし、カトリック教会のアルファクラスを受けてクリスチャンのコミュニティにも関わった。そのコミュニティ内で何人かの在留外国人(ドイツ人じゃないひとたち)と知り合って自宅パーティーに呼んでもらうようになったり、モスクをふらっと訪ねたことで親身に話しかけてきてくれたムスリムの友人も得た。
脈絡のない出会いが多かった。
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より具体的な例は、旅先の話をするとわかりやすい。
モスクワ旅行中に、友人たち複数人で連れ立ってカフェに入ろうとしたら、テラス席の紳士になぜか僕だけ呼び止められた(自分はスタニスラフスキーとトルストイの子孫だといっていた。冗談かと後で調べたら、フランス語の記事がヒットして本当にそうだった)。渡された連絡先にメールし、幾度かのやり取りをしながら、後にパリを旅行した際に再会した。
あるいはハンブルク旅行中に、夜中にゲストハウスの共有スペースで、隣のテーブルに座っていた韓国人女性と何気なく話しはじめた。じぶんたちのやっていること、おたがいの国の話。二人ともつたない英語で、でも心は伝わった。彼女はのちに日本に来て日本語学校に通って、いまでは日本語がとても上手になっている。時を経て今、僕もちまちまと韓国語を学びはじめた。
こういう例を出しはじめたら、枚挙にいとまがない。
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要は、「偶然性」の話に関わる。
同じ町のなかでは、偶然性に身を委ねる状況になることはほとんどない。生活圏には大きな変化が訪れない。
日常の延長に、偶然性が入り込む余地はわずかだ。脈絡のなさは、偶然性と深く結びついている。偶然とカオス、ランダムネス。
いかに偶然性を日常の中においてもひそませられるか。生活圏に関わるコミュニティの外への窓をひらいておくか。自力でどうにか頑張って関わりに行くというのもありなのだけれど、「勝手にやってくるもの」にこそ強い縁が生じるように思う。
そして人は偶然に、脈絡なく、勝手にやってくるものからの影響を受けやすい。それを良い変化として受け入れられたら、日常を超えて、人生の可能性は大きく広がっていく。
ぶらぶらとなんの目的もなく旅するときのように、日常への余白をもっていたい。そうしたら思わぬことが起こるかもしれない。思わぬことから生じる、じぶんの変化を歓迎したい。