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ベルリン・シャウビューネ『暴力の歴史』(トーマス・オスターマイアー演出)感想

東京芸術劇場プレイハウスにて、2019年10月25日観劇。


この暴力の歴史をどこまで遡ることができるだろう。

この世には「見える暴力」と、「見えない暴力」がある。「見える暴力」はわかりやすい発露の仕方をし、ときに加害者は法の下に裁かれる。
しかしその「見える暴力」を生みだす、社会構造としての「見えない暴力」、思想や差別感情による「見えない暴力」、あるいはまた歴史に由来する「見えない暴力」などがある。(ただし、この分類ではこぼれ落ちる多くのほかの暴力もありえる)

この劇は、ひとつの「見える暴力」を発端として、あまりにも積み重なりすぎた「見えない暴力」の歴史を辿っていく作品だった。
ヨーロッパにおける歴史の知識、コンテクストを学ぼうとしない限り、この暴力の歴史はどこまでも「見えない」ままである。

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ストーリーを手短に書く。

主人公エドゥアールはクリスマスイブの深夜、「アルジェリア系の男」レダに声をかけられて自宅に共に帰り、関係を持つ。翌朝、別れ際にエドゥアールがスマートフォンのないことに気づき、レダが盗んだことを確信しつつやんわり問うと、「俺は泥棒じゃない、お前は俺の母親を、家族を侮辱した」とマフラーで首を絞められ、さらには銃を突きつけられ、レイプされる。

劇は時系列を分解してあり、その後の警察での事情聴取や医師、看護婦とのやり取り、二年ぶりに帰った北フランスの実家の姉を尋ねるシーンが、たびたび挟まれるという形で、物語が展開していく。

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「アルジェリア系の男レダ」と公式のストーリー紹介にある。この言葉にまつわるアイデンティティの問題がまず根深い。

劇中でエドゥアールの姉がレダのことを「アラブ人」と呼ぶと、エドゥアールが「レダはアラブ人じゃなくて、カビル人だ」というシーンがある。日英の字幕は入っていなかったが、姉はこれに対して「Ja, egal(ええ、どうでもいいけど)」と返答していた。カビル人のことを知らなかったため、観劇中はその文脈がわからなかったものの、意味があることなのだと思った。
それで調べてみると、カビル人とはアルジェリアにいる少数民族で、ベルベル人の部族の一つだと知った。

アルジェリアは一般に「アラブ人の国」だと思われがちだが、アルジェリアにアラブ人がやってきたのは7-8世紀のことで、それまではカビル人を含むベルベル人の部族が住んでいた。しかもアラブ人はイスラム帝国の勢力として、その地に「侵攻」してきたのである。
カビル人はベルベル人の部族の中でも、イスラム教は受容しつつアラブ化を拒んだ部族であった。つまりカビル人をアラブ人と混同することは、その歴史を考慮しようとしない「見えない暴力」である。

近代において、アルジェリアは19世紀にフランスによって占領されて植民地となり、132年間にわたってフランス統治下にあった。
1954年に植民地独立運動として始まり、7年にわたって100万人の死者を出したアルジェリア戦争で、ようやくフランス政府が敗北する形でアルジェリアの独立が認められることになる。
このときフランス政府側について戦っていた100万人のアルジェリア人たちは、フランス本国に逃亡する。本国は、政府側に味方していた人間の入国を拒めず、結果として大量の在仏アルジェリア人が生まれた。

レダの父親もまた、アルジェリアからフランスに逃げてきたことがレダによって語られる。レダがパリに住んでいる、ということ自体がまたひとつの「見えない暴力」の経過であるといえる。
なぜなら歴史における「見える暴力」としてのフランス植民地主義、次いでその独立を目指したアルジェリア戦争の結果、生じてしまったコンテキストだから。そうした背景のもとで、レダは社会構造の中での「見えない暴力」に日々晒されていたことが想像できる。
パリで犯罪が起これば「北アフリカ人」の仕業であるとされ、(アルジェリア人よりもさらに広い括りで、移民へのアイデンティティへの関心の無さを示しているともみえる)、フランスの右傾化によって移民への排斥や差別感情は強まっている。

レダがエドゥアールに対しておこなった「見える暴力」は、そのような鬱憤のもとに発露したものだと考えられる。もちろん社会に対する怒りがあろうと、それを暴力として表していいわけがないが、発露した「見える暴力」を単純に法の下に裁くというだけでは、暴力の歴史は紐解かれない。
エドゥアールが「政治的理由で被害届は出さない。人を収容するということに反対する」と医者に対して言うシーンがあることは興味深い。

また同性愛に対しての「見えない暴力」もある(それは、もはや見えない暴力ではなく、見える暴力かもしれないが)。社会からの差別や偏見の目に限らず、あるいはもっと複雑な意味での暴力としても働く。
劇中にエドゥアールの台詞としてあったが、レダは「おそらく」ムスリムで、同性愛者である自身への嫌悪を抱いていた可能性があるということだ。自分に対する怒りが、他者に対する暴力性の発露として表れる(心理学用語で「プロジェクション」という)ことを示唆している。
もちろん、そうとは言い切れない。このエドゥアールのセリフ自体が、またひとつの「見えない暴力」であるとも考えられるから。そもそもレダがムスリムであるということは、作品中では言及される場面はなかったから。

とにかくあらゆることが「複雑」なのである。エドゥアールの姉は二度に渡って、「複雑、複雑……」というエドゥアールの言葉を冷やかした。「Es ist kompliziert(これは複雑だ)」という言葉を、ドイツ語ではよく使う。

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さて、エドゥアールが直接的な「見える暴力」の対象とされたのは、彼が「金髪で美しい青い目」をもっている白人であり、ニーチェとクロード・シモンの本を小脇に抱えて深夜の街を歩いており、見たところ小綺麗な格好をしていたからだと思われる。
レダは、彼をフランスの良い血筋のエリートだと思ったのかもしれない。エドゥアールは外見で判断されたのだ。
しかし実際のところ、エドゥアールの生まれは北フランスの田舎で、労働者階級の貧しい家庭のもとに育ったことが語られている。いとこは刑務所に入れられて30歳で獄中死し、祖父も刑務所に入っていたという。

原作となる私小説を書いた作家エドゥアール・ルイは、フランスのピカルディー生まれだとプロフィールにあった。劇中にも姉の登場シーンで主人公エドゥアールの生まれ故郷がたびたび出てくる。

そこでピカルディーという地域がどういう場所か検索をかけてみた。すると人口のほとんどを白人の肉体労働者が占めており、移民や同性愛者への偏見が根強いらしい。
フランスの極右政党である「国民連合(旧・国民戦線)」が、この地域を最重要選挙区に位置づけている。2015年には党首マリーヌ・ル・ペン自らこの地区から立候補している。「移民排斥」を強烈に掲げている政治家である。ル・ペンは2017年には大統領選に出馬し、1000万票(得票率33.90%)を集め、「2位」でマクロンに敗北している。

作家エドゥアールの生まれがピカルディーであったことは、劇の主人公エドゥアールの家庭環境を暗示する。
エドゥアールが父親に「私の家系は純粋なフランス人であり、混血ではない。はるか曽々々々々々祖父の代からフランス人だ」と言われたことを、レダに話すシーンがある。大変に保守的な父親だったことが、その台詞一つでわかる。
そして言葉通り受け取ったのかわからないが、このこともまたレダがエドゥアールを対象として「見える暴力」を振るうことの一因となってしまったかもしれない。

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この劇において重要なことは、終幕まで観ることによって明らかに判明することだが、「死者による語り」という構造を有していることである。

暴力はすでに行使され、二度と取り返しがつかない。

エドゥアールと姉が、レダの盗みを正当化するかどうかということに関して、言い合いをするシーンがあった。姉は盗みを許さない。エドゥアールは「彼が盗みをするのもわかる」と同情を示す。なぜなら自分も幼い頃に盗みを働いたことがあるから。
姉は感情的になり、しかし最後にはエドゥアールの強い意思をもった言葉によって、言い合いは終わる。

「Es ist meine Geschichte!(これは僕の物語なんだ!)」

そう、この物語はもはや帰らないエドゥアールの物語である。

* 結末は、ほかにも解釈の仕方がありえると思いますが、僕はここに書いた解釈で作品を観ました


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