ルソー『孤独な散歩者の夢想』解説(1)
はじめに
新刊『NHK100分de名著 苫野一徳特別授業 ルソー「社会契約論」』出版記念として、ルソー最晩年の哲学エッセイ『孤独な散歩者の夢想』解説第1弾をお届けします。(『エミール』や『人間不平等起源論』『告白』の解説もしています。)
苫野一徳オンラインゼミで、多くの哲学や教育学などの名著解説をしていますが、そこから抜粋したものです。
自伝『告白』にも書かれているように、『エミール』や『社会契約論』が時の権力からにらまれたルソーは、その後、ヨーロッパ中を命からがら逃げ回ることになりました。
すっかり被害妄想に陥ってしまったルソーは、かつての仲間たちもまた、ことごとく陰謀を企てる敵にちがいないと考えるようになります。
そんな「敵」たちを横目に見ながら、ルソーはひっそりと、本書で最後の思索をしたためます。
「夢想」と題されてはいるものの、ヨーロッパ最大の名声を手にしながら、同時に最大の転落を経験したルソーによる、やはり一級の「思索」と言うべきでしょう。
本書の完成からまもなく、ルソーは66年の生涯を閉じることになりました。
【第1の散歩】
本書の冒頭は、次のように始まります。
「この世にたったひとり。もう兄弟も、隣人も、友人も世間との付き合いもなく、天涯孤独の身。 私ほど人付き合いが好きで、人間を愛する者はいないというのに、そんな私が、満場一致で皆から追放されたのだ。」
ひとり残された者として、わたしは最後に、自分とはいったい何者なのかを考えたい。
ルソーはそう言って、本書で自分自身についての思索を深めていきます。
繰り返し述べられるのは、「諦念による平穏」です。
「こうして諦めてみると、これまでの苦痛がすべて埋め合わされるほどの平穏を見つけ出すことができた。この平穏こそ、諦めが私にもたらしたものであり、つらく報われることのない抵抗を続けていたときには、得られなかったものである。」
【第2の散歩】
晩年のルソーは、次のような仕方で思索を続けました。
「記録をとるのに、いちばん単純かつ確実な方法は、孤独な散策を書き記すこと、 散策中、頭を空っぽにし、何の抵抗もせず束縛も受けず、気質のままに思考しているうちに、ふと浮かんでくる夢想を忠実に書きとめる ことだろう。この 孤独な瞑想の時間こそ、一日のうちで最も私が私でいられる時間なのだ。ほかのことを思うことも、何かに邪魔されることもなく、自分のためだけにある時間。まさに 自然な状態の自分 でいられる数少ない時間なのである。」
夢想し、瞑想し、その中で浮かんでくることを書き留めること。
本書は、こうした散歩中の夢想・瞑想から生まれたものなのです。
【第3の散歩】
少しずつ、ルソーの思索は展開していきます。
「第3の散歩」の冒頭で取り上げられるのは、古代アテナイの政治家、ソロンの言葉です。
「『われ常に学びつつ老いぬ』。ソロンは晩年、この言葉を何度も繰り返している。年老いた私の身にも、この詩句の意味は思い当たるものがある。だが、私が二十年かけて培ってきた知識は実に悲しいものだ。こんなことなら無知のままでいたほうがましだった。逆境は、いい教師だが、その授業料は高い。多くの場合、学んだことの有益性よりも、支払う代価のほうが高くつく。そもそも、年老いて学んでも、時すでに遅く、もはや実践の機会がないのだ。」
常に学び続ける。そうソロンは言うが、わたしはこれ以上何を学んでももう遅いのだ。ルソーはそう言います。(ただし、次の「第4の散歩」の最後で彼はこの考えを少し改めます。)
そして続けます。今、学ぶべきことがあるとするなら、それはいかに死ぬかということだけである、と。
「もしまだ学ぶべきことが残っていればの話だが、老いて学ぶべきは、いかに死ぬかということだけだ。しかし、私と同じぐらいの年齢でそれができている人は少ない。皆、あれこれ学ぼうとするが、死に方だけは学ぼうとさえしないのだ。老人たちは、子供以上に生に執着し、若者よりもずっと未練たらたらで死んでいく。」
この章には、とことん自分の頭で考え続けた哲学者ルソーの、面目躍如たる一節があります。わたしが本書の中で最も好きな箇所です。
「私よりも博学な哲学者はたくさんいる。だが、彼らの思想は自らの血肉となっていない。彼らは、ただ他人よりも物知りになりたいと思い、まるでそこらにある機械の仕組みを調べるように、好奇心だけで宇宙を研究しているのである。人間について研究するにしても、単に学者ぶって話をするためにそうしているだけであり、 本気で自分自身について知ろうとしているわけではないのだ。彼らは、ただ他人に知識を教えたいから学ぶのであり、 自らの内側を解明しようとして学ぶ のではない。何でもいいからとにかく本を出して、世間に認められたいだけの者も少なからずいる。」
「いっぽう、私の場合、自分自身に知りたいという思いがあるからこそ、学ぶのであり、他人に教えるためではない。他人に教える前に、まず自分のために学ぶことが必要だと常々思ってきた。」
そんなルソーが、多くの「敵」たちから迫害された末にたどり着いた境地。それが、孤独を愛し、平穏の中で生きていくということでした。
その意味では、孤独の豊かさを教えてくれた「敵」たちに感謝したいくらいだとルソーは言います。
「今にして思えば、彼らは私を貶めようとして、私が自分では実現しえないほど完璧な孤独を用意してくれた。それこそ、私の望む幸福だったのだ。」
こうして、今や孤独を愛する自分は、新たに何かを学ぶ必要などないのだが、ただ1つだけ、これからの余生においては「徳」について考えたい。そうルソーは言います。
「こうした徳の分野での研鑽こそ、私が今後、余生を尽くして実行したい、唯一の有益な探究なのだ。 私自身が進歩を遂げ、生まれたときよりも善良になるのは無理にしても、生まれたときよりも徳の高い人間として死ぬことができたら、幸せだと思う。」
【第4の散歩】
そこでルソーは、まず「嘘」について思索を深めます。
本書前半の白眉と言うべき箇所です。
『告白』にもあったように、ルソーは幼少期、ちょっとした虚言癖がありました。
その中でも、ある気になっていた少女を、自分の嘘のせいで路頭に迷わせてしまったことがありました。
このことを、ルソーは生涯後悔します。そこで彼は、「嘘」について改めて考えたいと言うのです。
まず、ルソーは次の2つの問いを立てます。
「二つの疑問が浮かぶ。どちらも非常に重要な問いだ。まず、一つめは、 必ずしも常に真実を告げなければならないわけでもないのに、いつ、いかなる場合に、他人に対し真実を告げねばならない義務が生じるのか。もう一つは、 他人を欺いても罪にならない場合もあるのか、という疑問だ。」
2つ目について、ルソーは、現実社会においては、言うまでもなく他人を欺いても罪にならない場合はあると言います。
より重要なのは、1つ目の問いです。嘘をついてはならない時とは、いったいいついかなる時なのか?
ルソーは言います。
まず、特に何の利益にもならない真実については、別に嘘をついたところで問題はないだろう。
しかし、「公正」「公益」にかかわる真実については、嘘をついてはならない。嘘をついたことで、誰かが不利益をこうむることがあってはならないのだ。
でも、それだけなのだろうか? ルソーは自問自答します。
「誰かを騙しても損害を与えなければ罪にならないとしたが、自分で自分を傷つける場合もあるのではないだろうか。」
嘘をついたことそれ自体が、自分を傷つけることがある。
平たく言えば、嘘はわたしたちを、良心の呵責で苦しめることになるのです。
「自分に対して誠実な人たちとは、良心の呵責に苦しむようなことは決してするまいと常に心がけている人のことである。」
とすれば、「真実の人」とは次のような人間のことである、とルソーは言います。
「彼が真実の人であるのは、彼が他人を騙そうとしないからであり、彼が真実に対して誠実であるからだ。自分にとって不利になる真実であろうと、自分にとって有利な真実であろうと、同じように誠実である。自身の利益のためにも、他人を貶めるためにも決して騙そうとはしない。私の言う「真実の人」と世間で言う「噓のない人」の違いはというと、世間の言う「噓のない人」は自身の利害に関係ない場合に限りあらゆる真実に忠実であるが、自身の利害が絡んだときは真実から遠ざかる。いっぽう、私の思う「真実の人」は、命をかけて守らねばならない真実にのみ、徹底して忠実に尽くすのだ。」
以上のようなことを、ルソーは、自分の「嘘」を攻撃してきた「敵」たちのおかげで考えることができたと言います。
それゆえ、ソロンの格言は間違いだと言った前言を改め、次のように述べます。
「どんな場合であれ、ソロンの言葉は、どんな年齢になろうともあてはまることなのだ。賢明であること、真実の人であり、謙虚な人であること、自分を過大評価しないことは、敵対した相手からでも、学ぶことができる。そして、それがいつであれ、決して遅すぎることはないのだ。」
続く第5の散歩では、ルソーの幸福論が語られます。
個人的にも、とても胸を打たれる思索です。
ぜひ、引き続きお読みいただけると嬉しく思います。