天才とマネジメント
先に述べたように天才は感覚的に「できてしまう」ので、それを他人に引き継いだり委ねるといったことが基本的にできない。
つまりそれは「再現性がない」ということになる。
世の中にある大抵の仕事は、それができないと売上を大きく伸ばしたり会社を拡大させることも困難になる。無論、拡大させることがすべてでもなければ正しいというわけでもない。自分の目の届く範囲で、納得するものをできる範囲で、といった考え方もあるし、それは人それぞれの価値観による。
ぼく自身、もしお店なり事業を今から始めるとすれば、やはり時代背景などを考慮し利益の最大化は目指しても事業そのものの拡大はやはり目指さないとも思う。
いずれにしても規模の大小を問わず、お店や事業を営む人は自分のやっていることを肯定したい心理が当然働く。だからそれぞれが自分に見えている世界や価値観を基準に自己肯定の発言をする。時には社会情勢や人としての尊さといった抽象的な話まで持ち出したりして。
また、中には不毛としか思えないけれど、自分とは違う価値観やスタイルを否定することで自分のやっていることの正しさを証明しようとする人もいる。
いわゆるポジショントークである。
後者を除けば、これはぼくも含め誰もがそうであるくらい普通の感情や発言だと思うし、それを否定するものでもない。
ただ、世の中のほとんどの会社やお店が売上や利益の拡大を志向するのは、事業所が営利目的のものである以上当然のことであり、資本主義のルールの中で生きていることを考えれば必然の成り行きだと思う。
そういった意味では天才や才能ある個人が正当に報われることがあるとすれば、職業の選択によるところが大きい気がする。
例えば、小説家やプログラマー、漫画家(アシスタントを雇う場合が多いと思うけれど)、作曲家や作詞家など。これらは基本的に独りで完結する仕事であり、データのコピーや印刷といった量産が可能なので他者の手を要せずとも事業に負けず劣らずな利益を生み出す可能性がある。これなら問題ない。
ところがモノや食べものといったコピーや量産ができない職種の場合、利益の拡大を目指そうとするとどうしても他人の手に委ねることは必須で、そのため場合によっては妥協が必要な場面だって現れる。
天才や天才肌の人はこれができない。譲れない。
これが「創作とビジネスの葛藤」であり、モノづくりにおける天才が資本主義の中で生きるときの不遇だと思える。
天才の頭は途方もない容量があるのだろうけれど、それでも腕は2本、指は10本しかない。そして1日24時間なのも凡人と同じである。
個人では完結しないような職種の場合、その才能を活かすためにはやはり別にマネジメント能力に長ける人間が必要な気がする。
天才が高速に回転する性能の良い前輪だったとしても後輪がなければ進むことも、そのポテンシャルを活かし切ることもできない。
格闘家は身一つで成功しているように見えるけれど、それが天才と呼ばれる選手であっても舞台を用意してくれる人たちがいて、コーチやセコンドがいて初めてその能力を表現することができる。
独りでできることって、天才であっても意外と少ないのかもしれない。
つづく