
ボクらの時代
あれ、話題が変わった?と思われる向きもあろうかと思うけれど、変わっていません。
少し余談を挟むかもしれないけれど、あくまでも「働き方改革の話」の過程だと思っていただけると幸い。
ぼくが職人の世界で修業を始めた時、世間の空気はまだまだバブルの真っ只中で、テレビからは「24時間戦えますか」なんて、今では信じられないキャッチコピーのCMが微塵も悪びれる様子なく流れている時代だった。
そんな、一般的なサラリーマンも猛烈に働かれていたであろう空気の中、”職人” ”修業” と呼ばれるぼくらの業界(料理)は、いま振り返ると、そりゃあメチャクチャだった。
労働時間は長く、休みは週一。それでいて、ぼくの初任給はピッタリ11万円で賞与なし、社会保険なし、雇用保険なし、手当て何もなし、給料明細なし。
時代が時代とはいえ、これはもう「給与」とは呼べないのでは、とさえ思えてくる月払いの日雇い労働みたいなものだった。
食べもの屋さんを営んでいる人が警戒する行政機関は、次の3つだと思う。
保健所、税務署、労働基準監督署
少し前の記事でこう述べたけれど、ぼくが最初にお世話になったお店は、この3つのうち「保健所」以外、ほぼ無警戒だったと思う。現在なら即刻でアウトなことだらけだったけれど、昭和の終わり頃というのは、それでもどうにかなるような緩い空気だった。
それにしても当時19歳だったとはいえ、この条件で部屋を借りて一人暮らしをしていたのだから、現実としてお金に困っていたし、食べることさえ結構本気で困窮していた。世間はバブル時代なのに。
でもなぁ
それでも、不思議と毎日が楽しかった。
ぼくの場合、いずれは自分で店をすると初めから決めていたので、「ずっと同じお店でお世話になるわけではない」といった思いもあった。だから、昔の大人から言われていた「苦労は買ってでもせよ」とも全然違う。
当時、「趣味は?」と訊かれたら、真顔で「修業!」と即答していたし、ぼく自身「残業代?ボーナス?なんすか、その茄子。美味しいんすか?」くらいの調子だった。
人間の慣れとは恐ろしい、と言ってしまえばそれまでだけれど、ぼくだけが特段そうだったわけでもなく、一緒に働いていた人たちもおしなべてそんな感じだった。
もちろんすぐに辞めてしまう人もいたけれど、それは今も昔も変わらない。
お金もなかったし、仕事はキツかったはずだけれど、それでもぼくらはどこか喜々として修業をおもしろがっていた節がある。
ふと、あれは何だったんだろうと、今でも思う。
若くて失うものがなかったことや、無駄に体力もあったに違いない。感覚的には、報酬をもらえるわけでもないのに、夢中で頑張ることのできた学生時代のクラブ活動に近い気がする。
このご時世に、こんな時代錯誤な話を書くのは多少なりともはばかられる。
また誤解があると困るので一応お断りをしておくと、ぼくは懐古主義者でもなければ復古主義でもない。だから「昔は良かった」なんて単純な考えは毛頭なければ、「ぼくらの時代は、こんなに大変だった」「今の若い人たちは、恵まれていていいねぇ」なんて不毛なことを述べようとしているわけでもない。
つづく