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お好み焼き

※ こちらの内容は、ウェブサイト(現在は閉鎖)にて2016年~2019年に掲載したものを再投稿しています。内容等、現在とは異なる部分があります。ご了承ください。

なぜかわからないけれど、この1週間以上ふとした拍子に、ぼくの頭の中に「お好み焼き」が浮かぶ。
最近食べたわけでもなければ、目にしたわけでもないのに・・・
無意識のうちにお好み焼き食べたい、と思っているのかもしれない。

ところが結構な頻度で現れるこのお好み焼きは、そのビジュアルでなく「お好み焼き」という言葉の方だったりする。
気になりはじめると、この呼称が気になって仕方がない。

ぼくが子どもの頃、お好み焼きといえば家で食べるものだった。
どれくらいの頻度で食卓に上がっていたのか憶えていないけれど、決まって土曜か日曜の夕食だった気がする。
フライパンではなくホットプレートで焼いて、ひっくり返す度に父親がドヤっていたような記憶がある。

「今夜は、お好み焼きやで」とおばあちゃんや母親から聞かされるたび、とても嬉しい気持ちと裏腹に、子ども心に暗然たる気持ちになった。

お好み焼きって・・・よくもまぁ、こんなヘンな名前を付けてくれたな。
明日学校に行ったとき、「昨日、何食べた?」という話題になったらどうしよう、どうやって誤魔化そう、恥ずかしくて「お好み焼き」なんて言えへん。

実は、お好み焼きという呼称をぼくは一般的なものでなく、うちのおばあちゃんか両親が名付けた我が家のオリジナルだとずっと思い込んでいた。
なんてカッコ悪い名前だと思っていたお好み焼きが、我が家オリジナルでないと知ったのがいつだったのか定かでないけれど、おそらく友達だったであろう他人の口からその言葉を初めて耳にしたとき、ぼくは驚嘆したと同時に安堵したに違いない。

それにしてもお好み焼きって、と大人になってもまた気になっているこの1週間。
「お好み焼き」という呼称は、お好みのものを入れて焼くからだろうけれど、どうもざっくりとしていて主体性もなく、他人事のようで投げやりな名前に感じる。
寄せ鍋や昔メニューで見かけたシェフのおまかせサラダに通ずるやっつけ感とか、それならお好み鍋や寄せ焼きでも良いのではないか、とか。

いや、普段はそんなこと全然気にならないんだけれど。

最近はそうでもないけれど、ぼくは生まれ育ちが田舎だから子どもの頃は、東京の人に対し過剰なほどのイメージを持ち、コンプレックスが酷かった。
東京の人は、みんなが関西弁で言うところのシュッとしていて、全員が英語を話すことができるくらいのイメージを持っていた。
もちろん根拠なんてない。
だから東京の人が「お好み焼き」 という言葉を口にされたのを初めて耳にしたときには、軽い驚きさえあった。

「ほかす」と言っても通じない、シュッとした東京の人も、お好み焼きって言うんや、って。

料理の勉強をはじめた頃、フランス語のメニューを読めるようになりたくて見田盛夫さんの著書「メニューの読み方―フランス料理の愉しみ」を読み、フランス料理の料理名は本当に良くできているなぁと感心したものだった。

○○(素材や部位)をどう調理して、ソースは○○で、○○の風味になっていて、添えてあるものは○○と、そのまま料理名になっているから、それが読めればお皿の中を詳細にイメージすることができる。
今だとこれに、○○(地名)の○○さんが育てられた○○を・・・とまで付いていたりするから料理名がどんどん長くなるけれど。

フレンチに限らず最近の一流シェフたちは、メニューが素材名だけを書かれている方もおられたりして、なんだか自信の表れを感じるようでカッコいい。
ぼくが同じことをやったら、きっと叱られるに違いない。

それにしても焼きそばや焼肉とか、焼飯というのは名が体を表していて上手に名付けられたなと思うけれど、やはりお好み焼きはどうも引っかかる。
お好み焼きそのものは大好きなんだけれど。
ちなみに、ぼくは関西人だけれど好きなのは広島風。って、言ったら広島の方に怒られるんだっけ。

それにしても誰が最初に付けたのかな、「お好み焼き」って。


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