私がアメリカの幼稚園の先生になれた理由 その3
こんにちは、スロース英語教室のNaoko (itsumi)です。
私の人生と英語を振り返る連載を始めています。
目的は①自分の英語的な能力を親御さんに判断してもらうことと、②私の授業のスタンスを周知することです。
前回までのシリーズはこちらです。
高校まで:中学から発音記号と一緒に英語を学ぶ、シャイな性格、スピーチ大会出場
浪人時代:パズルをはめ込むような英文法を予備校で学ぶ
大学時代:英語即興ディベートにどハマリ。主体的に仲間と協力したり、好きな人に会いに行く
理数系の塾講師として就職
私が社会人として勤務したのは、地元の中規模の中学生を相手とした補習塾でした。
専攻が理系だったので理科や数学の教師として採用されます。
まぁここで私はできない教師でした。
「生徒を怒ることができない」のです。
アルバイトの先生でもちゃんと空気をピシッとさせることができる先生もいるのですが、私は生徒の緩みを許しません!のような雰囲気を出せないのです。
「生徒に嫌われるのが怖かったから」怒れなかったと思う方もいらっしゃるかもしれません。
それもなくはないですが、保護者に嫌われてクレーム出される方がもっと立場的にはヤバいです。
保護者の中には「うちで私が厳しく言っても子どもが言う事聞かないから、先生に怒ってもらって勉強させなきゃ」とお考えの方もそれなりにいらっしゃいました。
ただ私は「表面的にピシっとさせることが無意味」だと思っていました。
特に補習塾に来るような子どもたちは、学力に凸凹があり、どの部分が凹んでいるかを正確に把握してそこを埋めるところから始めないと、その上の学力が積み上がりません。
把握するのは先生側もだし、生徒本人にも理解してもらう必要があります。
しかしそれは「思春期真っ只中の中学生に、プライドを折らないまま現状認識をしてもらう」という繊細な作業です。
そのためには生徒に質問をしてもらわないといけません。
私語を許さないような教室から質問は出てこないし、その場で質問されても十分答えられるほどの授業準備はしていたつもりでした。
「即興」の訓練は学生時代にかなりやってきたつもりだったのです。
一応「少人数制」をうたった学習塾だったのでなおさらそう思っていました。
まぁでもそういうスタンスの塾ではなかったのに、私が(しかも新米で)入り込んだところで合うわけがないです。
家庭の環境など、当時は他にも悩むことが多く、退職して、引っ越しして、結婚して、専業主婦になり、子どもを育てました。
「数年の勤務歴しかなくて、マトモな社会人扱いは今後されないな」と思っていました。
娘の学校の保護者から先生になる(アメリカ)
実はこのnoteはアメリカに住んでいたときから始めたので、古い投稿を遡れば当時私が感じていたことを読むことができます。
最初はアメリカでも仕事をせず、アメリカ市民権を取るためのESLに通ったり、オンラインで地元の方に英語の先生になってもらって何とか人間関係を作ろうとしていました。
それがどうして突然「幼稚園の先生」の働き口が出来たのか。
色々タイミングが重なりました。
娘の通っていた幼稚園に限らず、アメリカでも幼稚園や保育園は深刻な人不足です。
給料が安くて仕事がキツイ、と思われているようです(当時の園長先生が言ってました)。
2021年6月くらいのとき、「また夏に求人ださなきゃなー」と先生たちが言っているのを聞いて、保護者だった私は勇気をふりしぼって言ってみたんです。
「私も応募できますか?娘が帰ってくるまでの短時間しか働けないけれど」って。
そうしたら「え?まじで?助かる!じゃあ一応resume持ってきて」となりました。
英語でレジュメ(履歴書)なんて書いたことがないので、私が唯一知っているアメリカの人たち(定期的におしゃべりをするESLの先生やローカルの元弁護士の先生)にレジュメを見てもらいました。
そんなわけでゲタを履いた状態での就職でしたが、それでも
「教育関係の履歴があるのはいいね」「大学の専攻は?」など、学歴と職歴について聞かれたので個人的にはこの2つは大事だったと思っています。
そうして「夏の間だけ、9時から15時まで」で私の大好きなある先生の下で働くことができました。
その期間がどんどん伸びて1年すこし、帰国ギリギリまで働くことができました。
やっとここまでお話できました。
次の回で「私の自分語りシリーズ」は終わろうかなと思います。
アメリカで感じたこと、帰国後自分が考えていることをお伝えします。
これを記事にしておくことで、今後スロース英語教室に興味を持って下さったご家族が、私という人間との相性をはかる一助になればと思っています。
残り1回、最後までお付き合いください。
よろしくお願いいたします。