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メタファーとしての孤高

このところ浮世の芥にまみれて人やら仕事やらに精神も肉体も振り回されることが多くて、擦り減ったり、焦点が定まらなかったり、足元がおぼつかない毎日が続いている。
人の中にいることは決して嫌いではないのだが、どこでも誰でも構わずどっぷりと浸かるのは昔から苦手だ。
格好をつけて「和して同ぜず」なんて言ったりもするのだけれど、その実は単に自分の弱さをある程度理解しているがための防御反応なのだと思う。

人に塗れると弱くなる。
誰にでも言えることではないだろうが、僕には実によく当てはまる。
塗れれば慣れ、慣れれば馴れ、馴れれば頼る。期待し、希望し、自分一人では抱えきれないほどの荷物であっても、分担すれば担ぐことができるのではないかと考えるようになる。ただの錯覚、思い込みでしかないのに。
そういう筋書きに自分が流されていくことにどこかで恐怖を感じてきたのだろうと思う。

孤独を愛すると言えば、これまた果てしなく格好をつけているだけなのだが、一人でいることはさほど苦痛ではない。
対話の相手が自分の頭の中にあるものだけになってしまうにしても、今の世の中では新しい何かを自分に取り込んでいくことはさほど難しいことではない。
垂れ流される情報を峻別する力さえあれば、新鮮な栄養を取り込むことはできる。

今は諸事に振り回されている影響で、日常の澱によって流れが阻害されている。
これを最も手っ取り早く修復するには、やはり書き散らすに尽きる。最も手近にあって、最も簡便で、最も効果の大きな手段。

日記みたいに日常をありのまま書くわけではないにせよ(しかも何かちゃんとした着地点を作ろうという気すらないし)、一人の人間が日々の生活をしながら書き記せば、妙な連続性が出てきてしまう可能性はある。
それはそれで読み返した時に発見になるのではないかと、幾らか期待しているところだ。

それでも頭と心のどこかで、屹立して他を寄せ付けない高い山を思い浮かべるのだが、きっとそれはただの願望なのだろう(あるいはメタファーなのかも。メタファーだったらいささか怯むところがある)。

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