プロセスを愉しむ
名のある仏師は一本の木を目の前にして、掘り出すべき仏の姿を目にすることができたと聞く。
見えたなら、あとは余計な部分を削ぎ落としていけば、やがて仏の姿だけが残る。
こうして一体の仏像が彫り上げられるというわけだ。
言わんとしていることは何となく判る気はする。
だが、名仏師のごとく最初から決着点、到達点が見えていることなど例外中の例外で、凡庸な自分には求めるべくもない。
手を動かして何かを作る時など(僕は日用大工からノートのリフィルまで、割といろいろなものを拵える趣味がある)、あれこれと試行錯誤を繰り返す。しかも結果は「買った方が安い上に良いじゃないか」というクオリティとコストになることも珍しくない。
周囲には「趣味だから」と言い訳をするのだが、言い訳をしても作ることをやめないのは、試行錯誤するプロセス自体が楽しいからなのではないかと省察している。
ところがである。
物語を作る時にはどういうわけか、試行錯誤のプロセスをすっ飛ばして、初っ端から完成形に近づけたいという願望が前面に出てしまう。
いま書いている雑文のようなものは、まるっきり書いたままの「書いて出し」状態だ。間違いの確認や修正などまったくしない。それどころか読み返しもしない。単純に頭に浮かんだことを羅列して、書き終えたらあとは公開……という手順を進むだけである。
何とも乱暴で、「完成度」なんてこととは遠く離れたシロモノでしかない。
他の「作る作業」と「書く作業」でどうしてこうも違うのか。
自分の想像でしかないけれど、僕のこの性質はこれまでに物語を読み過ぎてきた弊害なのかもしれないと考えている。
完成した物語だけを数多く受け取ってきたが故に、自分で作る際にも「物語は完成した状態で存在して当然」とどこかで思い込んでいる気がする。
もちろんそんなことは大間違いで、日用大工であれ物語であれ、およそ人が作るものは——再現性が重要な料理などを除けば——すべて何らかの形で「計画〜試作〜修正〜完成」のプロセスを辿るものだ。
名仏師のごとく最初から完成形が見えているなんてことは、ただの勘違い、ただの過信なのである。
ずっと気がついてはいたのだけれど、僕はもっと作るプロセスを楽しまなければならないと思う。
ただの白紙の紙をデスクに置いて、紙のサイズ目一杯に大きな枠を描き、閉じた線の中の密度を矛盾なく埋め尽くしていく。
「プロットを作る」とかいうと、実際の作業は直線的、一次元的になりがちだから、そうではなく、平面的——できれば時間の推移をレイヤーとして積み重ねて三次元的な作業にして、試行錯誤を繰り返していかなければ真っ当なものなど作れないのだと思う。
あとは、他の趣味同様、「買った方が手っ取り早く、クオリティも高い」という可能性の大きさをどう否定するかにかかっている。
ポメラが不要であることの理由を書き始めたはずが、いつの間にか自戒のメモになってしまった。
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