茅の輪くぐり
六月晦日は夏越の祓。
今年の前半分の穢れを、茅の輪を8の字に回って祓う神事だ。
茅を束ねた輪をくぐったぐらいで穢れが祓えるなら、なんともお手軽でありがたい。鰯の頭も信心からというわけで、近所の神社や八幡社でぐるぐると茅の輪をくぐってきた。
とはいえ鰯の頭を信心するほどの篤い信仰心などあるわけもなく、どちらかといえば「神仏を崇めて神仏に頼まず」と言ったらしい宮本武蔵の方に賛意を示したくなる不信心者なのだが、寺社仏閣へ参拝し、賽銭を投げて柏手を打ったり、手を合わせたりするのが馬鹿馬鹿しいとは思っていない。
世間のどこかにはきっと「そんな非科学的なことを」と呆れる御仁もいるのだろうが、科学的と言われたところで科学者・研究者が発表したものの中身など理解できるはずもなく、結局は「科学者のセンセーが仰ってるんだから、その通りなのだ」とこぞって盲信しているだけのこと。釈迦やキリストやムハンマドがどう言ったと説教しているのと大差ない。
結局、科学なんてものは現代における最新の宗教なわけだ。
コロナウイルスのワクチンがなぜ重症化を防いだり、軽減するのかは、多くの人が知っている。「免疫」ができるからだ。でも、なぜワクチンを注射すると免疫ができるのかまでわかっている人は少ない(それほど複雑なメカニズムではないようだから、知りたければ『はたらく細胞』でもご覧になるのがいいだろう)。
知らないままで「ワクチンって効くんだってよ」と誰かに言ったとしたら、すでにあなたは科学という宗教の信者になっているということだ。
と、こう書いても「だからワクチンなど信用できない」と言いたいわけではない。まるっきり逆だ。宗教も科学も受け手が都合よく使い分ければいい。それだけのことだ。
為政者が都合よく使うと宗教ほど厄介なものはないけれど(そういう例は過去に山積みになっている)、一般大衆が個人個人の都合で信じたり信じなかったりする分には、信仰というやつはなかなかに便利なのだ。
昔、薬についての知識など何もなかった頃、突然の頭痛に見舞われた時、「俺も頭痛持ちだから、医者から処方してもらった薬をいつも持っているんだ」と、友達がくれた錠剤を1錠飲んだら、ものの5分で頭痛が収まったことがある。
読んでいる方のご想像通り、プラシーボ効果である。
友達がくれた錠剤は頭痛薬などではなく、ただの胃薬だったのだが、これまでに数えきれないほど飲んできた頭痛薬のどれよりもあの1錠の効き目は絶大だった。
信じる、思い込むというのは、どれも似たようなものだ。
医学の発達していなかった時代、茅の輪はワクチンのような役目を果たしていたに違いない。
「夏越の祓に茅の輪をくぐれば、穢れが落ちて、半年は無事に過ごせる」と幼稚なほど疑いもなく信じたのだろう。
今日、近所の神社に行った時にも、参拝する人がポツポツとやってきて、茅の輪をくぐっていた。
信じる者は救われる。信じるから騙される。結局はどちらに転ぶかわからないということだ。
茅の輪をぐるぐる回るくらいなら、ご利益がなかったとしても失うのは数十歩の歩数程度のもの。だったら8の字回りで茅の輪をくぐったとしても痛手を被ることはあるまい。
(おまけ)
考えてみると神道の神様ってのはあがめられるだけで、それほど大きな利益を還元してはくれない。その代わりあがめないと祟るというのだから始末に困る。
境内で売っているお守りだって、きっとどこかの工場で機械が織ってるに違いない。下手したら神社も寺院も区別なく、同じ生産ラインで作られている可能性だってある。
あがめないと祟ると脅して、挙句には偽薬ほどの効果しかないものを売るのだから、やってることは反社会性力と似たり寄ったり。
そこで茅の輪をくぐるべく8の字にぐるぐると回るのだから、なかなかシュールだ。