8回目の反抗期 |Jul.7
所用で久しぶりに電車に乗った。
外出自粛の間はもちろん、3月以降、電車に乗った回数は数える程しかない。障害者手帳を持つ自分が社会的弱者なのだなと感じるのは、こういう時だ。
実は今日七夕は誕生日だった。
「誕生日だから何か特別なことを」という性格でもなく、きっといつものと同じような1日になるんだろうなという予感はしていた。
醒めているといえば醒めているし、仰々しいことが得意ではないのだから、他の364日と同じような日になるのは当然だ。そのことに不満があるわけではない。
だが、仰々しいことが不得意なのと、賑やかなのが嫌いであることは、同一ではない。僕が苦手なのは日々の中に起きる波の上がり下がりで、生活の中に必要以上の抑揚をもたらす仰々しさが好きではないのだった。
毎日の気分は数値化して、絶対評価できるものではない。
「今日の満足度は97.6%で、今日の満足度は30.3ポイント下がった67.3%だ」というようにはならない。
常に前日との比較、過去との比較になる。その落差が、僕はどうも苦手なのだ。
それなら低空であっても水平飛行ならいいのかというと、それが決してそうではないから困る。
何事かがあるのも嫌だし、何もないまま1日が過ぎることもまた嫌なのだ。実にわがままである。
「だが、そういう二律背反の中で折り合いをつけながら、日々を過ごして行くことが大切なことなのだ」
偉い人が好んで言いそうなことだが、そんなに簡単に割り切れるものか。
そんな年寄り臭い考えに丸め込まれてたまるかとばかりに、年甲斐もない反抗心が芽生えた。そして、その芽が育つことはないまま、1日は終わった。
結果としてはなんとも凡庸な、普段よりずっと冴えない誕生日になってしまった。これなら一日中、ずっと小説でも読んでいた方が、はるかに充足していただろうに、と歩き回ってパンパンに張った足腰に舌打ちしながら、僕は思った。
「門松は冥土の旅の一里塚 めでたくもありめでたくもなし」
とんちの一休さん、一休禅師の読んだ有名な狂歌が、老境に日々近づきつつある僕には、だんだん現実味を帯びて感じられるようになった。
昨年、心臓を患い、一度心臓が止まってからは、死ぬまでの残りをボーナスゲームとか、延長戦と思えるようになった。
それだけに、今日のような無為な1日から受けるダメージは、これまでと比べてもはるかに大きいのだろう。
明日はボーナスゲームらしい1日にしなければ。
8回目ぐらいの反抗期が始まりそうな予感がした誕生日になった。