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アパートの名前

持病持ちの我が身では公共交通機関をコロナ以前のように使うにはいささか躊躇してしまう。
改札の前で「よし!」と気合いを入れてから乗り込まなければならないし、車中でも絶えず周囲に目を配って、怪しいからは距離をとるという、「偶然が重なってCIAが一瞬で壊滅する情報を握ってしまった男」みたいになっている。
毎度こんな調子だから、わずかな時間であってもとにかく疲れる。
そんなわけで外出はもっぱら自転車である。

一方通行も関係なく(関係なくはないけど)、どんな路地でもひょいひょい入っていける自転車は、費やす体力を別にすれば本当に便利だ。
歩き回っている時ほど細かいところには目が届かないが、行動範囲は徒歩より遥かに広い。自転車で走り回って得られるのは、注視というより概観と行ったところか。

先日、区役所までとある手続きに行ったときのこと、初めて通る道で「マラケシュ」と名付けられたアパートメントを見つけた。

マンションやアパートメントにつけられた珍妙な名前は、時々話題になる。
実物とあまりに乖離した誇大広告みたいなものや、およそ建物の名前じゃないだろうというものまで、種々様々な名前がつけられている。
犬にはポチ、猫にはタマ、といった王道のネーミングももちろん多いのだが、先日発見した「マラケシュ」は「下高井戸」と名付けられた犬みたいな感じがした。

きっとアパートメントのオーナー氏は、かつて行ったマラケシュに感銘を受けたんだろう。あるいはマラケシュで忘れられない恋をして、もしかしたらマラケシュを自分が暮らす理想の土地と思い、いつか自分がアパート経営をするようになったら「マラケシュ」と名付けるのだと固く誓っていたのかもしれない。

賃貸住宅のネーミングとしてふさわしいかどうかはともかく、あちこちにあるアパート、マンションの名前は想像力を刺激してくれる(主として荒唐無稽方向に)。
くだんのアパートも「マラケシュ」だったからいいけれど、中国の景徳鎮だったらどうしたんだろうかと考えてしまう。まさか建物を陶器で作るわけにもいかないだろうし。

景徳鎮ならまだいいが、オランダのスケベニンゲンだったらどうするのか。そんな名前(いや、オランダの立派な観光地なんですが)のアパートに入居する人なんているんだろうか、と余計なことばかり考えてしまって、実に楽しい。

銀座で「銀座スケベニンゲン」というレストランを見かけたことがあるけど、イタリア料理と書いてあった。
銀座でオランダでイタリア料理。
適切なネーミングというのは難しい。


(オマケ)

昔、村上春樹のエッセイでラブホテルのネーミングが出てきたことがあった。

かつて国道4号沿いに「せっかち」と「ひまつぶし」という2軒のラブホテルが向かい合わせにあって、そのネーミングの面白さがネタになっていた。

だがこの「せっかち」と「ひまつぶし」は、元々は同じオーナーが所有するレストランとドライブインだったのを僕は知っている。父の運転する車で立ち寄ったこともある。

「せっかち」は街道沿いを急ぐ大型トラックの運転手が大盛りのどんぶり飯を掻き込んで、そそくさと出発していくようなドライブイン。「ひまつぶし」は今でいうところのファミレスのはしりのようなレストランだった。

父と一緒に祖父母のところに行く途中で寄るのはもちろん「せっかち」で、いつか「ひまつぶし」に入ってみたいというのが、子供の頃のささやかな願いだったのでした。
それが同じ名前のままラブホテルになってるとは……しかもなかなかシャレが効いてるネーミングだし……

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