運命について、あるいはポテトフライの話
今日も相変わらずハイボールとポテトフライを注文する。いつもの組み合わせである。半袖にはまだ肌寒い春の日の夕方。いつまでも慣れない渋谷の街にある適当な雑居ビルの3階、こじんまりとした暗がりの居酒屋にいる。
この店までは道すがらに立て看板を見つけ、良さげな店内写真とメニュー表に釣られて入ってきた。なんの計画性もなかった割にはいい雰囲気の店内で内心ほっとしている。
カウンターに用意されたメニュー表を適当に開き「揚げ物」と括られた欄に視線を向けると、山盛りのポテトフライと普通のポテトフライのふたつの選択肢が用意されている。とても親切だ。ポテトフライが大好きな僕としては少し迷うところではあるのだが、僕さも当然のような声色で普通のポテトフライを注文する。なぜならば、山のようなポテトフライをテーブルに並べておく訳にはいかないからだ。このカウンターにはハタチをゆうに超えた大人がふたりだけ。僕らはサークル帰りの大学生ではないし、今日は食い意地を張る場面でもないのだ。それにもしも足りなければ、改めておかわりを頼めばいい。それだけのことである。
しばらくすると注文したハイボールが運ばれてくる。ウイスキーの種類はできれば角がいいが、ジムビームでもラッキーゴールドだったとしてもなんら問題はない。さっき注がれたばかりであろうグラスの中では、炭酸がしゅうしゅうと音を立てて抜けていくのが聞こえる。小さいけどわくわくする音だ。
ハイボールを飲み進めながらポテトフライに思いを馳せる。ひとくちにポテトフライといっても、どんな料理が出てくるのかはテーブルに運ばれてくるまでのお楽しみだ。ポテトフライは形状だけをとってみても、店によって細いものも太いものもあり千差万別なのである。それが仮に細いポテトであったとしても、居酒屋のものとファストフード店でハンバーガーとセットで提供されるもでは全くもって味が違う。まるで別の料理である。
その上付け合わせにだっていくつかのレパートリーがあり、僕はそれをわくわくしながら予想するのである。ケチャップがスタンダードである(少なくとも僕は)思うわけであるが、ケチャップに加えてマヨネーズが用意されることもあるし、溶けたバターを添える居酒屋チェーンや、バーガーショップなんかではマスタードが添えられていることだってある。こうなってくると、その組み合わせは一体何通りあるんだろうか。これからきっと運ばれてくるポテトフライはどんなポテトフライで、その組み合わせは何通りのうちのひとつなのだろうか。
ようやくお待ちかねのポテトフライが運ばれてくる。せっかちな僕にとって待ちに待った瞬間である。どうやらこの店のポテトフライは太いタイプのものらしい。カゴのような皿(あるいは皿のようなカゴ)に油を吸う白い紙が敷かれ、その上に太く切られたポテトが油を纏いテカテカと照明の光を乱反射している。付け合わせには別の容器にケチャップが添えられていて、取り立てて特徴はないが、それはそれでこじんまりとしていて嬉しい。
僕はそれを恐る恐る口へと運ぶ。口の中に予想通りの熱さを感じながら、舌にはまだ当てないようにカリッとした外面を噛み、どうにか火傷しないように注意を払いながら、その内側に存在するほくほくとした芋をへと到達する。塩けじゃがいもの苦さとデンプンの甘さが混ざり合い、熱気とともに僕の口の中に広がる。僕はこの熱を氷で冷えたハイボールで流し込む。そして僕は今幸福であると感じられる。こうしてポテトフライを求め、カゴいっぱいのポテトフライを口にすることができたのだから。そしてその合間にハイボールを飲むことだってできるのだ。
ここまで読み進めてくれたあなたは、そんなものはありふれた感情だと思うかもしれない。どこにでもある取るに足らないものでなんの意味も持たない、と。しかし僕がこの前ドラマチックな出来事に心を動かされたのはいつのことだっただろうか。そしてそれは本当に続く日常から切り離されたことだっただろうか。
僕はそれについて考えてみる。僕だけでなくほかの人の幸せについても聞いてみたいところだから、そんなに簡単に決められない。そして逃げるように目の前のポテトフライに視線を向けても何も教えてくれない。
ただそこには僕の幸福という運命に収束するように、太さや塩加減、それにケチャップといったいくつかの可能性が掛け合わせれた結果としてのポテトフライがただ目の前に存在するだけなのである。
ポテトフライがなくなる前にカウンターに立てかけられたメニューを適当なページから開いていく。注文すべき品をいくつか相談しながら決めていく。少しはチャレンジした注文をしたって大丈夫。なぜなら僕たちのテーブルにはまだポテトフライが残っていて、これはいつだって僕をいい気分にさせてくれるから。
あ、でも、かぼちゃとパクチーは抜きでお願いします。