見出し画像

10.邪教の祭典、神話の機能

邪教のお祭り、儀式は、どのようなものだったのでしょうか。

王殺し

古代には神聖な王を殺すという伝統がありました。古代の邪教では、王は神の生きた体現者とされていたので、死なれると困ります。弱るのも困ります。

そのため、王が老衰すると処刑し、より力強い後継者を立てる、という伝統が生まれました。いわばアップデートです。

太陽は没しても必ず東から昇ります。人類史上はじめて神となったニムロデは、結局生き返れませんでした。人間だったからです。

なので息子のタンムズが生まれ変わり、という設定になりました。王も同じく、代々生まれ変わらなければなりません。それも常に力強くなければなりません。弱々しい王は作物の収穫などに影響を及ぼします。

後継者を探すあいだは、身代わりが王の役目を果たしました。身代わりは王と同様に楽しむことができるのですが、後継者が決まると処刑されました。

王殺しの起源は、バビロンの主神マルドゥクの死と復活を祝う新年の祭りにあります。メソポタミアのザグムクやイースター(まさに復活祭)に相当するお祭りです。

ザグムクは「年の初め」を意味し、マルドゥクとティアマトの戦いは十二日間つづくので、祭りも十二日間つづきます。

https://www.belloflostsouls.net/2021/03/dd-wizkids-unveils-its-largest-mini-yet-tiamat.htmlより転載。ゲームのおかげでこんなイメージしか思い浮かばない。

ザグムクは悪魔崇拝者のお祭り、ベルテインのルーツでもあり、こちらが作付けのお祭りなのに対し、十月に行われるサムハインは収穫のお祭りです。現在ではハロウィンと呼ばれています。なにを「収穫」するのでしょうか。

エヌマ・エリシュと少年マンガ

祭りの四日目には、バビロニアの創世記叙事詩、エヌマ・エリシュが朗読されます。神マルドゥクが混沌に勝利し、世界の創造において秩序を確立した、という物語です。

エヌマ・エリシュは、「天の上がなかったころ/そして下の地も存在しなかった」からはじまります。

創世記の一章一節は「はじめに神は天と地を創造された」です。四節では「神は光を見て、それが良いものであると判断した」とあり、穏やかな天地創造の様子がつづきます。

翻ってエヌマ・エリシュは、「そこにはアプスー、はじめの者、かれらの生みの親/そしてデミウルゴス、ティアマト、かれらすべてを産みし者」と次々キャラクターが登場します。いつでも大乱闘を起こせるぞといった趣です。

アヌンナキの神々は、反旗を翻した神々を打ち負かせる神を探すため、寄り集まります。アヌンナキとは冥界の七人の審判で、アヌ神の子たちです。イナンナなどが含まれます。

左がイナンナ

ちなみにこのアヌンナキは、旧約聖書の大洪水に出てくる巨人アナキムの起源となっています。ギリシャ神話のタイタンとしても認識されます。

マルドゥクはアヌンナキの要請に応じ、主神の座を約束されます。そして毒をくわえた四頭の馬に引かれた戦車で戦いに赴き、ティアマトに打ち勝ちます(四頭の馬に引かれた戦車というモチーフも今後数多く出てきます)。

物語はドラマチックで、ハリウッド映画や少年マンガのように神は打ち負かされ死んでしまいますが、魔術的な儀式によって蘇り、ついにティアマト(ドラゴン)を倒します。

ベジータとナッパが地球に襲来したころ、孫悟空は文字どおり死んでいました。その後生き返って勝利します。

ハリウッド映画ももれなく死と再生というテンプレを用いています。人の心に訴えかける要素だからですが、そもそも敵と味方に分かれて戦う必要はありません。世界があって、そのまま世界があり、ずっと平和でした。これでいいのです。

現代における神話、マンガや映画やゲームの影響で、人は戦うもの、というイメージが完全に定着しています。なので戦争が起きてもだれも不思議に思いません。学校でのいじめも「そういうものだ」と信じています。

戦争は儲かります。銀行屋やネオコンからしたら、マンガ映画ゲーム様々です。もちろんバトルもののマンガや映画やゲームは、そのつもりで制作されています。少年ジャンプの連載はもれなくバトルものになります。

次々と神々が登場するのは先に書いたとおりですが、しばしば親父やお袋よりも強靱だったりします。ピッコロ、ベジータ、フリーザのテンプレそのままです。

わたしたちは現実とマンガ映画ゲームがごっちゃになっています。人類総オタク状態です。

永遠に戦いつづけたいと願う存在がいるからです。その発露が神話と呼ばれるものです。

聖なるセックス

エヌマ・エリシュを語り終えると、祭司は王の耳をつかんでマルドゥクの像の元に引きずっていきます。王は許しを乞い、王の義務を怠らなかったことを誓います。

王は身分を示すバッジを外され、祭司から平手打ちを受けます。王の目から涙が出るとその年は豊穣の年となります。

この儀式とお祭りはローマ帝国時代までつづきました。王が謙虚になるので一見よさげですが、最後には「神聖な結婚」とされる儀式で、王は神になりきり、巫女と儀式的なセックスをします。これは神と女神の結合をあらわしています。

祭りが終わると、王は殺されました。

神聖な結婚の儀式は、入念に準備されました。神殿と神聖な空間の用意、参加者の清めの儀式、神々への供え物などです。儀式の参加者は、イナンナを代表するハイプリーステス(大巫女)、王、儀式を補助する祭司や巫女です。

しかし、いくらハイプリーステスなどの肩書きを持ち出し、「神と女神の結合を象徴するのだ」ともっともらしい理由をつけても、セックスはセックス、殺人は殺人です。

そして激情によらない殺人は、いつの時代も悪いことです。

道徳ありきの反抗

このような儀式殺人を取り上げても、たいていの人は「昔の人は道徳がなかったから」で済ませてしまいがちです。

セムがニムロデを殺し、バラバラにして各地に警告したように、古代にも道徳、つまり唯一神への信仰は存在していました。

アレクサンダー・ヒスロップの『二つのバビロン』によると、バビロニア人すらも「すべてを支配する唯一無二の全能の創造主がいることをはっきりと認めて」いました。「ほかのほとんどの国も同様であった」

ゴート族の宗教は、宇宙の支配者である至高の神の存在を教え、万物はその神に服従し、従順であると説いていた。

https://chcpublications.net/Two_Babylons.html

古代アイスランド神話は、この神を、「存在するあらゆるものの創造者、永遠なるもの、生けるもの、畏れ多き存在、隠されたものを探求する者、決して変わることのない存在」と呼んでいる。

https://chcpublications.net/Two_Babylons.html

現代のヒンドゥー教は何百万もの神々を認めているが、インドの聖典は、もともとはそうではなかったことを示している。ムーア少佐は、ヒンドゥー教の最高神ブラフマーについて次のように述べている。かれは「すべてを照らし、すべてを楽しませ、すべてはそこから生じた。そして、すべての者が生まれながらにして生きているものであり、すべての者が帰らなければならないものである」(『ヴェーダ』)

https://chcpublications.net/Two_Babylons.html

アメリカの作家で陸軍退役中佐のデイヴ・グロスマンは、ある南北戦争での銃撃戦を『戦争における「人殺し」の心理学』で伝えています。

十五歩と離れていないところから何度も一斉射撃を行ったのに、一人の死傷者も出なかったのだそうです。

人を平気で殺せるのは、一パーセントから二パーセントの割合でいるといわれるサイコパスです。わたしたちのような「ふつう」の人間は、マスケット銃を空に向けて撃ったり、自分の銃にいくつも弾を込めたり、「仲間のために」弾を込めてあげたりします。あげくは逃げ出します。

そのため、邪教の祭司も、海兵隊の軍曹も、「悪いこと」をできるよう訓練します。儀式と同じ、クスリや非日常体験で精神的肉体的に追い込み、新たな情報を擦り込みます。

現実を見ると、なにもかもが一部の人間の金儲けのために動いています。マンガ映画ゲームだけでなく、スポーツも対立であり戦争です。SNS上の論争も戦争です。これらの手法はすべて、古代からつづく叡智に基づいています。

あまりに洗脳が激しいため、訓練しなければ兵士や邪教の信徒は「悪いこと」ができない、という発想は、なかなか出てきません。わたしたち人間は、デフォルトで罪の意識を感じる生き物なのです。

一にして善なる創造主がいるからです。わたしたちは善い人間で、戦う必要は本来ありません。


いいなと思ったら応援しよう!

謎の賢人
この記事はリサーチにかなりの時間を費やしています。有料にはしたくないので無料で公開していますが、チップをいただけましたら精神的にも励みになります。